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10/01

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神田キリスト教会
〒101-0021
千代田区外神田3-5-11
電話 03-3251-4981 地図

毎週日曜日
7 時 30分  聖餐式
9 時 30分  日曜学校礼拝
10 時 30分
第1、第3~第5日曜日
      聖餐式
第2日曜日 み言葉の礼拝

*早朝聖餐式 
  再開いたしました。どうぞご出席ください。

毎月第3金曜日
11 時   逝去者記念礼拝

*結婚式をご希望の方は牧師にご相談ください。

09/22

 「『不正な管理人』のたとえ」と新共同訳聖書にはあります。ルカ独自の話です。この個所は三つに分けられます。16:1~9「不正な管理人のたとえ」、16:10~12「ごく小さな事に忠実であること」、16:13「二人の主人に仕えること」です。三つ目には並行個所マタイ6:24があります。昨年に発行された聖書協会共同訳との大きな訳の違いを記します。16:4「自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」は、「私を家に迎えてくれる人がいるに違いない」であり、16:8「この不正な管理人の抜け目のないやり方」は、「この不正な管理人の賢いやり方」になり、16:9と16:11「不正にまみれた富」は「不正の富」になりました。16:8の「主人」が「不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあります。主人はキュリオスで、主キリストとも読めますが、「ある金持ち」です。不正をされた金持ちが、その不正をほめるのですから理解が困難です。金や富に仕える人には分かりません。「不正にまみれた富」は「不正の富」です。富は元来不正です。16:13c「神と富とに仕えることはできない」のです。管理人は、お金持ちから借金のある人の負債を少なくしています。借金と負債は、負い目であり罪です。管理人は、一人ひとりの罪を少なくされます。

聖霊降臨後第15主日 (特定20 C年)
 アモス書 8章4~7節
 詩編 第113編
 テモテへの手紙一 2章1~8節
 ルカによる福音書 16章1~13節

09/21

関 正勝 司祭 説教 聖霊降臨後第14主日(特定19 C年)
ルカによる福音書 15章1~10節

 「わたしは、その罪人の中で最たる者です」(Ⅰテモテ1:15)

 今日の福音は、「見失った羊」のたとえです。このたとえはマタイ福音書18章12節以下にも記されています。以前にも申し上げましたが、福音記者マタイは、「迷い出た羊」のたとえとしています。ルカは羊を「見失った」と語り、マタイはこの羊を「迷い出た」と表現します。この表現の違いは、大きいと思います。ルカが羊を「見失った」と表現する時、そこには誰がその羊を「見失った」のか、という「見失った」者の責任が問われていましょう。一方マタイの表現では「迷い出た」羊の責任が問われることになっているように思います。いずれにせよ、二つの福音書の羊に関する表現の相違は、それぞれの福音書の視点、また立ち位置の違いが現れているように思います。マタイ福音書は初代エルサレム教団がそれなりに組織的に体制が出来て、教団内の結束が固くなっていたようです。外の世界に対しては、自分たちの信条を表明することで、ユダヤ的教団の存在意義を語ろうとしていた、と見えます。一方ルカ福音書は時代もマタイよりも降って、ユダヤ以外の外の世界との接触も多く、彼らの生活世界に向けて語っていることが多く生じていたように思います。このような違いが「羊」に対する表現の違いになっているのではないでしょうか? このような違いがあるにしても、いずれの福音書も共に「見失い・迷い出た一匹の羊(また無くした銀貨)」を見出すまで捜し、尋ね求めないではおられないイエスの姿が語られています。

 今日の福音書は、「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」と、たとえが語り始められた場面を記しています。しかも、イエスはこのたとえを「放蕩息子」のたとえの直前に語られたことになっています。放蕩に身を持ち崩した息子のうちの弟を待ち続ける父、そして彼が「自分を取り戻し」て父の家に帰って来たのを喜んで、「死んでいたのに生き返った」「いなくなっていたのに見つかったのだ」、と語って宴を開く父の喜びを共にすることのできない兄がいます。今日の福音もこのたとえに語られる父の喜びの大きさがどれほどであるかを「見失った一匹の羊・無くした銀貨」の発見という出来事によって力強く語られています。イエスの話を聞こうとして近寄って来たのは「徴税人や罪人」たちだった、と書き始められています。当時「徴税人」と言われる人々は、ローマの支配下にあってユダヤ人からもろもろの税を徴収してローマに献納する働きをする人々でしたから、ユダヤ人同胞からは忌み嫌われていました。今日の福音書でも彼らは「罪人」と同格にして扱われています。このように同胞からは好感を持って受け入れられてはいなかった彼らの日々は、むしろ生き難い状況があった、と言えましょう。そこにイエスが町に来られるという出来事が起こりました。他の誰よりも先にイエスの話を聞こうとイエスに「近寄って来た」のでした。彼らの真剣な姿が見て取れます。

 ところが一方、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分たちが交際することを嫌っていた「徴税人や罪人」と言われる者たちを迎え入れて食事まで共にされるイエスに「不平」を言うのでした。「ファリサイ派」とは、自分たちを正しく聖なる存在として他の人々から区別して生きてきた人々でした。「律法学者」にしても同様で、自分たちを「正しい」者として生きていました。ですから、彼らは「徴税人と罪人」を迎え入れるイエスの態度は理解しがたいばかりではなく、赦されない行為だったに違いありません。イエスは、彼らのそのような差別的な態度を痛いほど経験してきていました。

 そこでイエスは今日のたとえでは、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで」また「一枚のドラクメ銀貨(ギリシアの銀貨・デナリオン銀貨と等価で農夫の一日の賃金)を無くしたら、…見つけるまで念を入れて捜す」という、懸命に探し続けるイエスご自身の熱心を語って聞かせておられます。この一匹の羊、一枚のドラクメ銀貨(彼女のへそくりだったかもしれない僅かなお金)を、「九十九匹を野原に残して」という危険で異常とまで思える行動(岩波訳では「九十九匹を野原にうち捨てて」)が、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」という、福音の事実を証しています。

 「悔い改めの必要のない正しい人」などは誰もいないでしょう。今日の使徒書テモテⅠ1章15節でパウロは「わたしは、その罪人の中で最たる者です」と深刻な告白をしています。そうです。神の前に自分を「正しい人」と告白できる人は誰もいないのです。しかし、その告白こそが神の「憐れみ」を受ける入口でした。ファリサイ派や律法学者たちはそれが出来ませんでした。彼らは律法や古い言い伝え、過去となった伝統的な価値観や習慣から自由になれていませんでした。そのような伝統的な価値観や世活の知恵に寄りかかって自分たちの正しさ・良さに固執する彼らに単刀直入に、イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5章31, 32節)。今日の福音書では「見失った」また「無くした」という言葉が何度も繰り返されていますが、このような存在に対する神の徹底した働きが強調されている、と言えましょう。

 そして、さらに自分たちの正しさ・良さに立っているファリサイ派や律法学者たちが陥った問題は、「徴税人、罪人」と言われた人々との交わりを持てないでいることです。放蕩息子のたとえでの「兄」の態度と同じではないでしょうか? ところが今日の福音では、失い・無くした者を見出した人は自分一人で喜んでいるのではありません。近所の人や友人を呼んで「一緒に喜んでください」と繰り返し、呼び掛けています。イエスはわたしたちにもこのように招き入れようとして呼び掛けてくださっています。徴税人ザアカイにも(ルカ19章1節以下)「今日、救いがこの家を訪れた。…人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(19章9, 10節)と語られています。失われ、無きに等しい者とされがちなわたしたちの救いのためにその働きを止められることのない神の愛が、わたしたちを生かしてくださっています。その養いを主の宴である聖餐が用意されていることを思い起こして感謝のうちに日々を送りたいものです。
 アーメン

09/21

9月22日(日) 聖霊降臨後第15主日
      7時半  聖餐式
      9時半  聖歌隊練習、日曜学校礼拝
      10時半  聖餐式
      礼拝後  愛餐会
      愛餐会後 バザー値付け
  27日(金)10時半  下町聖書の会

★ポップコーンの試食を本日行います。
 バザー値付けも行います。ご協力をお願いいたします。
★今後の聖歌隊練習:9/29(日), 10/6(日)<本番> 9時半~礼拝堂にて
★10/6(日)10時半 創立142周年記念礼拝・敬老のつどい
 敬老のつどい後 教会問答の学び/その後 教会委員会
★10/11(日)10時半 下町聖書の会
*浅草日曜給食活動のため、お米(古くないもの)をご献品ください。

09/15

 「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえです。羊の並行個所はマタイ18:2~14「迷い出た羊」のたとえです。銀貨はルカ独自です。マタイは、迷い出た羊です。羊は自ら迷い出ました。ルカは、羊飼いが百匹の羊のうちの一匹を見失ったのです。見失うはアポリュウーミです。これは見失うというよりも失うことであり死です。羊飼いが、見失ったのではなく一匹の羊が失われたのです。一匹の羊を失った羊飼いは、見つけるまで歩くのです。見つけたなら喜んで、友人、隣人を呼び集めて「わたしと一緒に喜んでください」言います。十枚のドラクメ銀貨を持つ女が、その一枚を失ったなら明かりをつけ家を掃除して、見つけるまで丹念に捜します。見つけたなら、友人、隣人を呼び集めて「わたしと一緒に喜んでください」と言います。失うは死を意味します。羊飼いと女は、失った羊と銀貨を見つけるまで捜します。見つけるはヘウリスコーで、単に捜し見つけるだけではなく、“自分のために見つけ出す”という意味もあります。羊飼いと女は、六回も失ったものを自分のために見つけます。見つけた二人は五回も喜びます。私たちの神は、死んだ者をご自分のために見つけ出し喜んでくださる神なのです。

聖霊降臨後第14主日 特定19 C年
 出エジプト記 32章1, 7~14節
 詩編 第51編1~17節
 テモテへの手紙一 1章12~17節
 ルカによる福音書 15章1~10節

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