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10/01

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神田キリスト教会
〒101-0021
千代田区外神田3-5-11
電話 03-3251-4981 地図

毎週日曜日
9 時 30分  日曜学校礼拝
10 時 30分
第1、第3~第5日曜日
      聖餐式
第2日曜日 み言葉の礼拝

早朝聖餐式の日程 
日程が決まり次第お知らせいたします。

毎月第3金曜日
11 時   逝去者記念礼拝

*結婚式をご希望の方は管理牧師にご相談ください。
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03/17

 今日の福音書には「エルサレムのために嘆く」とあります。並行個所はマタイ23:37~39です。しかし、ルカ13:34~35の2節だけにしか並行していません。ルカ13:31~33は、ルカ独自の資料に基づきます。現在の新共同訳聖書と新しい共同訳聖書では、ここに大きな違いがあります。現在の訳は『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とあります。新しい聖書では『今日も明日も三日目も、悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない』と訳が違っています。岩波訳聖書によりますと、「三日目にすべてを終える」は、「イエスの癒しの業を特徴としたエルサレムへの行程が終わりを迎えることと同時に、イエス自身の生涯が死を迎えることを示唆する」とあります。終えるは、ヨハネ17:4の「成し遂げる」と同じです。ギリシャ語のテレオーです。しかし、新しい聖書訳は「今日も明日も三日目も、悪霊を追い出し、癒やしを行うことをやめない」としました。やめないが、テレオーで、成し遂げるですから、悪霊を追い出し、病を癒やし続けることが、十字架の死を迎えることの意味になります。十字架は、悪霊を追い出し、病を癒やし続けることなのです。十字架は、愛の業を行い続けることなのです。

大斎節第2主日 B年
 創世記 15章1~12, 17~18節
 詩編 第27編10~18節
 フィリピの信徒への手紙 3章17節~4章1節
 ルカによる福音書 13章31~35節

03/16

3月17日(日) 大斎節第2主日
      9時半  日曜学校
      10時半  聖餐式
      礼拝直後 黙想
      黙想後  愛餐会
      13時   婦人会
  20日(水)12時20分 ランチタイムパイプオルガンコンサート (演奏:和田純子)
      コンサート後 ウォーキングのつどい (品川ベイエリアの橋めぐり)
  21日(木)9時   第134(定期)教区会(聖アンデレ主教座聖堂・ホール)
  22日(金)10時半 下町聖書の会

★3/24(日)13時 リグリマ・ジャパン代表 上澤伸子さんのお話
     14時45分 「歌劇 沈黙」 ビデオ鑑賞 (初台 新国立劇場)
★3/31(日)13時  大斎講話 お話:関正勝司祭
★4/7(日) 12時半 教会問答の学び
     13時  教会委員会
*浅草日曜給食活動のため、お米(古くないもの)をご献品ください。

03/15

関正勝司祭 説教 顕現後第6主日(C年)
ルカによる福音書 6章17~26節

 「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」(エレミヤ17:7)

 今日の福音は幸いと不幸についてのイエスの説教が与えられています。同じ説教がマタイ福音書にも記されています(マタイ5:1~12)。マタイ福音書では「山上の説教」となっていますが、今日のルカ福音書ではイエスが山の上から降りて来て弟子たちに語っているところが違っています。先主日の福音ではイエスがシモン・ペトロなど最初の弟子たちを召し出された時のことが語られておりました。イエスはその弟子たちと共に神の言葉と働きを人びとに伝えて、キリストとしての働きを開始されています。今日の福音書の直前の記述でも「おびただしい数の病人」が多くの地方からイエスの教えを聞き、また「病気をいやしていただく」ためにイエスのところに人びとが集まって来ていた、と記されています。そのように多くの人びとがイエスに病などをいやしてもらい健康を回復したいと願っていたのでした。イエスはそのような姿をある場面で「飼う者のいない羊」といった表現をし、その姿に心を深く痛めておられていたのでした(→「腸痛む」)。

 今日の福音はイエスが語られた説教にも近い短い言葉が与えられていますが、これらの言葉の背景には、イエスの時代に生きていた人びとの精神的にも肉体的にも苦しみや悲しみといった困難を抱えて生きなければならなかった人びとの現実と、そしてそれらの人びとを全く顧みようともしない多くの豊かな人びとの姿があった、と言えましょう。「貧しい人びと」「飢えている人びと」「泣いている人びと」さらには「憎まれ…人の子(すなわちイエスを信じる者たち)のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき」そのような人びとは「幸い」だ、と語られ、その反対に「富んでいる」者、「満腹している人びと」そして「今笑っている人びと」は「不幸」だ、と宣言されます。ここでイエスによって指摘されている「幸せ」「不幸」の対象とされている存在を限定し、特定することは出来ないと言うべきなのではないでしょうか? 現代の日本社会に目を移す時、貧富の格差社会は現実ですが、いわゆる絶対的貧困という状況は解消されているのではないでしょうか? 「貧しさ」という点に関しては極めて流動的になっているように思うのですが。もちろん、ここで語られている「貧しさ」を精神主義や観念的な理解の次元に落としてはならないと、私は考えます。このように申しますのは、現代における「貧しさ」は必ずしも物質的な貧しさではなく、精神的な、内面的な、いわば「枯渇感」といった状態で「貧しさ」を経験することが多いのではないでしょうか。精神的・内面的な「欠乏感」「充たされない感情」が、わたしたちの貧しさとしてあるように思います。

 イエスが「貧しい人びとは、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」と語られるとき、依然として存在する社会的な格差が産み出す貧困問題に関心を持ち、それに取り組む働きが求められていることを自覚しないではおられないのですが、同時に内面的・精神的な「貧しさ」、充たされないで不足と枯渇している自分自身の孤独な有り様に目を向けなければならない、と思うのです。今日の旧約聖書で預言者エレミヤはこのようにわたしたちに語ります。「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。…祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」

 わたしは現代社会における「貧しさ」を思います。それは一面的な捉え方になってしまっているとご批判を受けるかも知れませんが、預言者エレミヤが語る「呪い」と「祝福」を支える現実に思いを致したいと考えます。「貧しさ」とは、自らの「不足」・充たされなければならない自分の枯渇状態に気づかされないでいる状態を言うのではないでしょうか? 父なる神を求めないでも生きられるとし、それを「強さ・豊かさ」と感じてしまう、自己充足している自分を生きていることではないでしょうか? その姿は他者の存在や助けを必要としない孤立した生き方を貫く人のことではないでしょうか? 他者の助けを必要としない、否、他者が邪魔にさえなる人は結局、自分の不足を知らない人であり、その人は孤独の内に死ぬ。ギリシャ神話に出て来るナルシスのこと、マルチン・ブーバーが語った手の長い人の寓話、彼は結局食べ物を自分の口に入れることが出来ずに餓死してしまう。

 「貧しい人」・その人は自分の不足を知る人で、しかし人びとが提供する物の確かさや確からしさの不十分さを知っているがゆえに、「主を信頼する人」に他ならないでありましょう。その人は相手によって生かされ、支えられていることを知っているがゆえに共に生きようとし、そのことを喜びとしている人でありましょう。それゆえその人は「神の国はあなたがたのものである」と言われて、神の国が誰一人不必要とされない、神が創造された尊厳をもって生きることができる世界であることが示されているのであります。

 わたしは先々週のことですが、親しい交わりのうちにあったキリスト者である方の死を迎えなければなりませんでした。彼は木彫を生業とし、すばらしい作品をわたしたちに残してくださいました。彼は若い頃から喘息など多くの病を抱えて苦労の多い生活を強いられていました。78年の生涯でした。しかし、彼は本当に優しくて、人の痛みや悲しみに寄り添うことのできる人でした。入退院を繰り返すことが多く、必ずしも経済的に豊かとは言えませんでした。それにも拘わらず、いつも私たちのことを気にかけて心配してくれていました。最後となった入院の時も病床を訪問しようとする者に、院内にもインフルエンザが流行っているから来ないように、などと気を配ってくれる人でした。この彼の優しさは、彼自身が貧しさを知る人、憂いを知る人だったからだと思います。その貧しさは自分一人では生きてはいけない、他者の存在と助けを受け止めて生きて来た彼がいたからこそ「共に生きる」生かされるという「神の国」の前味を日々の生活の中で味わって生きることが出来たのだと私は信じます。彼は「主に信頼し、主をよりどころ」にしないでは生きられない、「貧しい」けれども、しかし真に「豊か」な「祝福された人」「神の国はあなたのもの」と迎え入れていることを私は堅く信じます。今日の福音、イエスの「幸いと不幸」の言葉を心に留めたいものです。
アーメン

03/15

3月20日(水)、ランチタイムパイプオルガンコンサートを開催しいたます。
皆さま、どうぞお越しください。

日時:2019年3月20日(水) 12時20分~50分
入場:無料(自由献金有り)
演奏:和田純子
曲目:
J. S. バッハ
 『音楽の捧げもの』 BWV1079 より
  3声のリチェルカーレ
  6声のリチェルカーレ
 「我、神より離れまじ」 BWV658
 前奏曲とフーガ ハ短調 BWV546

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