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10/01

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神田キリスト教会
〒101-0021
千代田区外神田3-5-11
電話 03-3251-4981 地図

毎週日曜日
9 時 30分  日曜学校礼拝
10 時 30分
第1、第3~第5日曜日
      聖餐式
第2日曜日 み言葉の礼拝

早朝聖餐式の日程 
日程が決まり次第お知らせいたします。

毎月第3金曜日
11 時   逝去者記念礼拝

*結婚式をご希望の方は管理牧師にご相談ください。

06/14

6月19日(水)、ランチタイムパイプオルガンコンサートを開催いたします。
みなさま、どうぞお越しください。

日時:2019年6月19日(水) 12時20分~50分
入場:無料(自由献金あり)
演奏:和田純子
曲目:
C. メルーロ      トッカータ 第8番
S. A. de エレディア 第Ⅰ旋法のティエント
          闘いのティエント
J. カバニエス    イタリア風コレンテ
          「めでたし海の星」によるティエント
          ラミレによるティエント

06/09

 今日の個所は、復活節第2主日にも読まれました。20章は、イエスが復活された朝早くのできごとがあります。その後、復活されたイエスがマグダラのマリアに現れます。そして、その日の夕方が今日の個所です。弟子たちは、最高法院のユダヤ人を恐れて、マルコの家と言われている建物に潜みます。弟子たちは、捕縛されひどい目に遭わされることを恐れ、扉という扉にみな鍵を掛けています。復活されたイエスは、そのようなところを通り抜け、弟子たちの真ん中に立たれました。イエスは、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われます。イエスは、手のひらの釘の跡とわき腹の槍の刺し傷を見せます。弟子たちは、それらの傷跡の恐れ以上に、復活のイエスを見て喜びに満たされます。弟子たちの心の扉が開かれました。死への恐れを通り越して、恐れは復活の命への喜びに変えられます。イエスの平和は単なる平和ではありません。死が最後ではないことであり、イエスのみ言葉に生きる者は死なないことです。死への恐れを喜びに変えます。聖霊は、弟子たちにこの喜びを与えます。聖霊は、この喜びを伝えるために弟子たちをこの世に遣わします。イエスの平和は復活です。

聖霊降臨日(C年)
 使徒言行録 2章1~11節
 詩編 第104編30~35節
 コリントの信徒への手紙一 12章4~13節
 ヨハネによる福音書 20章19~23節

06/08

6月9日(日) 聖霊降臨日
      7時半 聖餐式
      9時半 日曜学校
      10時半 聖餐式
          *本日の愛餐会はお休みです
      14時  東京教区合同聖餐式・入信の式 (香蘭女学校礼拝堂)
 14日(金)10時半 下町聖書の会

★6/16(日)13時  婦人会
★6/19(水)12時20分 ランチタイムパイプオルガンコンサート(演奏:和田純子)
      コンサート後 ウォーキングのつどい(「深川めし」を食べて深川散歩)
★6/21(金)11時  6月逝去者記念礼拝
★6/23(日)13時  敬老のつどい準備会
★6/28(金)10時半 下町聖書の会
*浅草日曜給食活動のため、お米(古くないもの)をご献品ください。

06/07

関 正勝 司祭 説教 復活節第5主日(C年)
ヨハネによる福音書 13章31~35節

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

 今日の福音はイエスの弟子たちへの最後の言葉(~16:33 いわゆる告別の説教)であります。17章にはイエスの弟子たちのための「とりなしの祈り」があります。

 わたしたちの教会はイエスのご復活日を迎えて、新しい命に生かされる喜びに生きる、復活後の主日を迎えています。イエスは死んで墓に葬られましたが、その墓はイエスを繋ぎ留める力を持っていない。イエスを信じて生きてきた者たちにとってイエスの死は大きな悲しみと落胆、絶望をさえもたらしました。しかし、彼らはイエスが生きておられることを知らされ、イエスが復活された喜びで再び生きる勇気と希望を与えられたのでした。今を生きているわたしたち自身もご復活の喜びが今日を生きる希望となっておりましょう。イエスが復活されたという出来事はイエスの死を示す墓が「空虚」であったことによって証明されるのではなくて、悲しみや困難が深く影を落とすわたしたちの日々をそれらに支配されることなく今日を生きているわたしたち自身の姿によってこそ証しされると言えるのではないでしょうか?

 今、教会とわたしたちは復活節を生きているのですが、今日の福音は先に申しましたようにイエスを信じる者たちを大きな失望と悲しみにおちいらせたイエスの受難と十字架での死が、悲しみに支配されてしまいそうな弟子たちを前にしたイエスご自身が「告別の説教」をして彼らを励ましておられます。今日の聖書日課の直前の13章30節はユダの裏切りの行動を記しています。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」 何と示唆に富んだ表現であることでしょうか。光また昼に実行されるのではなくて、「夜」ことが行われようとしています。「夜」は光を拒否する裏切りと罪の世界を象徴すると同時に、闇の世界の終わりと新しい光の世界の存在を指し示します。ユダヤ人の議員で、ファリサイ派に属していたニコデモがイエスを密かに訪ねて「新しく生まれる」ことへの深い疑問を投げかけたのは「夜」でした(ヨハネ3:2)。イエスと二人の弟子との出会いも「夜」でした。今、復活節の喜びの季節に、聖書日課がイエスの別れ、受難と十字架の死の出来事をわたしたちに伝えている理由は、他でもないイエスの復活という喜びの出来事はイエスの受難と死、十字架を避けてはあり得ないという真実であります。受難と十字架なしの復活信仰はいわゆる「安価な慰め」に他ならないことを、今日の聖書日課はわたしたちに語っていると言えましょう。

 それゆえ、今日の福音は冒頭でイエスがご自分の死を語られます。イエスにとって「栄光」とはご自身の十字架・死のことに他ならないのです。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。」一般的に、また常識的には受難と十字架という出来事は敗北であり、辱めと受け止めざるを得ないでしょう。しかし、イエスの生涯は受難と十字架を通して神の御心が実現する時である「栄光」が示されるのです。イエスの近くにあって共に歩んできたユダでしたが、この真実・受難と十字架が主であるイエスにとっての栄光・神の御心の実現するときであることを受け止めきれないでいます。イエスは十字架に架かられる前に弟子たちの足を洗って、彼らへの愛を示されました。そして言われたのです。「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(13:15) しかし、ユダは「夜」に留まっています。「栄光」とは、相手を征服し、支配する「力」や「権力」によって勝利する世界と考えていたのではないでしょうか? それはイエスが神のわたしたちへの愛を生きられるその姿とは全く対照的な世界であった、と言えましょう。ですから彼はイエスを敗北者として敵に金で売り渡して憚らないのです。

 今、繰り返して申し上げたいのですが、わたしたちが感謝と喜びに与るイエス復活の出来事は受難と十字架を伴っている、ということであります。それゆえにこそ、わたしたち自身イエスを信じる者たちは自分たちの日々の悲しみや落胆、失望といった現実を畏れ多くもイエスの受難と十字架に重ね合わせて、それらの現実に支配され飲み込まれてしまわない新しいいのちをわたしたちの主であるイエスの復活の光に支えられて希望を生きることができるのではないでしょうか。イエスは今日の弟子たちとの別れの説教で「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」 互いに愛し合いなさい、と語られるイエスは「新しい掟」として命じておられます。その「新しさ」とはギリシア語で「カイノス」という言葉で表現されているように、単なる時間的な「新しさ」とは違って、決定的な質的な内実を持つ言葉であると言われています。それはヨハネの手紙一3章16節に「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。」 ヨハネはここに愛がある、と言います。わたしたちはこの愛・わたしたちを新しく生かす愛によって支えられています。それこそがわたしたちの死や悲しみに連なる日々をそれらに支配されないで、常に新しく生かされる復活のいのちに生かされて生きているということに他ならないでありましょう。

 わたしたちの今日一日が死に支配されない復活のいのちを、すなわち「互いに愛し合う」いのちを証しする一日であるように、共に祈り励まし合うことができますように。

 アーメン

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