最新関正勝司祭 説教原稿の記事一覧

01/12

降臨節第3主日 ヨハネによる福音書 1章6~8, 19~28節
司祭 関 正勝 師

 今日の福音は、ヨハネ福音書が伝える洗礼者ヨハネの登場とその働きに関するものであります。洗礼者ヨハネの登場は既に先主日マルコが伝える記事が与えられていました。マタイ、マルコ、ルカそれぞれの福音書が伝える洗礼者の姿とは、今日の福音である福音記者ヨハネが伝える伝え方は大きく異なっています。ヨハネ以外の三つの福音書は、ヨルダン川で洗礼者ヨハネが行っていた洗礼は「悔い改め」の洗礼であり、彼はそのためにユダヤの人びと(ファリサイ派やサドカイ派を中心としていた人びと)に向かって激しく「悔い改め」を迫って、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(マタイ3章7~8節)と叫んでいます。さらに、マタイ福音書は他の福音書と共に洗礼者が、悔い改めを必要とする彼らユダヤの人びとの真の姿を示すかのように、整然と整っている町でではなく、野獣の跋扈する「荒れ野」で行動し、しかも彼は「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食べ物としていた」と述べられています。この姿は、まさに悔い改めを必要とする人間の赤裸々な姿を現す、ヨハネ自身の、いわば行動預言に他ならないでありましょう。彼らが悔い改めを必要とするのは、彼らが「われわれの父はアブラハムだ」などと、自分たちの出自・家柄といったものを誇りにして(この彼らの誇りは、同時にイエスが聖霊によってマリアの胎に宿ったということで、父親不在の子ではないか、との陰湿な誹謗中傷があったことを背景に含んでいたに違いありません)、イエスの出自を暗に批判しているのに対して、洗礼者は「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造りだすことがおできになる」と語って、自分たちがたまたま所有している持ち物などによって自らを誇り、神の働きを否定する人びとに悔い改めを迫っていました。

 日々の生活や自分たちの行動に何の疑問をも懐かず、平穏無事を良いことにしている人びとに洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ」
と叫んで、悔い改めを迫り、彼が使命とするイエス誕生の「道備え」をしている姿を、ヨハネ福音書以外の福音書はむしろ荒々しくリアルに伝えています。それに対して、今日の福音書は、福音記者ヨハネがまず洗礼者を紹介するのです。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しするために来た。光について証しするために、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しするために来た」(ヨハネ1章6~8節)。このように、今日の福音書では洗礼者ヨハネを他の三つの福音書とは異なった角度から捉えて、わたしたちに伝えてくれています。そこにこの福音書の他の福音書とは異なる特徴が示されています(それはイエス誕生の出来事を伝える伝え方においても同様です)。

 ヨハネ福音書は、「証し」という視点から洗礼者ヨハネの行動をわたしたちに伝えます。彼は光について「証し」する人物として登場しています。彼は「証人」なのです。この人の「証言」は、法廷などでの証言・証人の場合がそうであるように、まず証言を求めている人がいて、証人はその人の求めに応じて(促されて)証言し、証人になると言えましょう。洗礼者ヨハネも、勝手に自分から証人となっているのではなくて、まず「光」であるイエスとの出会いがあって、その出会いに促されるようにして「証し」がなされている、と言えましょう。光であるイエスを証しする洗礼者ヨハネの姿は、徹底して謙遜な態度でなされています。洗礼者の前に、祭司やレビたちが出てきて問いかけています。「あなたは、どなたですか」、「メシアですか、エリヤ、あの預言者(モーセのこと)ですか?」 そのいずれに対しても彼は「そうではない」と答えています。

 洗礼者ヨハネの答えは、そのすべてに対して否定的な告白と証しとなっています。彼のこの態度は徹底した謙遜を表していると言えますが、それは自己卑下などとは根本的に違っています。彼の「わたしは・・・ではない」という自己否定は「絶対的な肯定」すなわち「わたしは・・・である」という存在に出会っているときにその「否定」は意味を持つ、と言えましょう(イエスは御自分を「わたしは命のパンである」ヨハネ6章35節,48節、「わたしは世の光である」ヨハネ8章12節、「わたしはある」ヨハネ8章28節、その他10章14節、11章25節、14章15節)。洗礼者ヨハネがユダヤの人びとを前にして彼らを「蝮の子ら」と呼び、路上の何の変哲もないただの「石」を指さして、人びとが自分たちの出自や家柄さらには人びとからの評価などを根拠にして生きている姿を批判し、さらに自分を「メシアではない」と「否定」したのは、他でもないこの「絶対的肯定」(者)を知り、信頼していたからに他ならなかった、と言えましょう。このようにわたしたちは「絶対的な肯定・然り」に出会い、その存在や事柄に信頼を置くとき、わたしたちのそれまでの生活を支えていた、あれやこれやの現実はどれほどの意味をも持たなくなる、と言えないでしょうか? 「絶対的な肯定」の前で、わたしたちの価値観は相対化される、と言えましょう。聖霊によって洗礼を授けるその方を知っているがゆえに「わたしは(その方の)その履物のひもを解く資格もない」とは洗礼者の証しです。

 福音とは何か?と言えば、まさに自分が自らの出自や家柄といったものを誇りとすることで格差と差別の社会をいっそう越えがたく作り上げている現実が「蝮の子」「路傍の石」であることを知らされて、神はそのような存在をも用いて「アブラハムの子たち」を作り上げてくださるという、そのような「絶対的存在・肯定者」である神へと立ち返らせる力こそが、福音なのではないでしょうか。聖書、特に新約聖書にはイエスに出会って、自分の生き方が相対化されて、新しく生き始めた人びとの出来事が記されています。畑に隠されていた宝を発見して、喜んでいる人の姿がそうです。イエスは言われます。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13章44節)。

 洗礼者ヨハネが「わたしは・・・ではない」と自己否定できたのは、「絶対的肯定者」(わたしは・・・である)エゴ エイミと語るメシア・キリストに出会っていたからでした。この出会いこそが、彼の存在と働きに意味をもたらしているのでした。いま、ここに生きているわたしたち自身にしても、己を謙虚にし、低みに立てるとしたら、それは「自己肯定」ではなく、神の『絶対的な肯定・受容』との出会いがあってのことであることを心に刻みたいものです。

 幼子イエスの誕生を祝い、わたしたち一人ひとりのうちに幼子を誕生させるためにも、今日の主日の洗礼者ヨハネの「あなたは、どなたですか」との問いかけに、徹底して自分自身を相対化して、神に生かされている者として応答した洗礼者ヨハネの姿に学びたいものです。

 アーメン

11/06

聖霊降臨後第19主日(特定23) マタイによる福音書22章1~14節
司祭 関 正勝 師

 イエスはユダヤの指導者たち祭司長やファリサイ派の人たちに譬えでもって「天の国」について語りを続けられています。今日の福音では「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている」と語り始められます。この譬えの内容については、わたしたちもよく知っているところです。福音記者マタイは旧約の民ユダヤ人を前にして「神」という言葉を用いることに大層注意深いように思います。モーセの十戒が戒めている「神の名をみだりに口にしない」との戒めを、彼は強く意識していたようです。ですから、他の福音書が「神の国」と言うところを、今日の福音書の場合のように「天の国」と表現することが多いようです(→ルカ14章15節以下)。婚宴に招いておいた人びとが来ようとしなかったので、王は家来を使いに出して言います。
「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください」。
ところが、人びとはこの招きを無視して、畑や、商売に出かけて行ってしまい、挙句の果てにはこの人びとは家来たちを殺してしまいます。このような人びとの乱暴なふるまいは先週読まれました「悪いぶどう園の労働者」のそれを思い起こさせます。それは、神から遣わされた一人子イエスを十字架へと追いやるユダヤの人びと(律法学者、ファリサイ派の人びと)の姿と重なります。怒った王は、町を焼き滅ぼすと言うほどの行動をとっています。以上がこの譬えの前半です。彼らは王子の婚宴に招かれたことを喜び誇りにさえ思っていたに違いありません。ユダヤの慣習で婚宴への招待状には招きの事実だけが記されていて、婚宴の日時は空白のままにされていたそうです。したがって、招かれた人びとからすれば「用意ができました」と言う、その当日を知らされて慌ててしまうことも多くあったようです。今日の招かれていた人びとにとってはその招待日が突然、思いがけない時にやって来たわけで、楽しみにしていたはずのその宴会を断らざるを得なかったわけです。しかし、王は彼らの態度を怒られます。そして譬えは後半に移ります。再び「婚宴の用意はできている」という王の言葉が宣べられます。

 そして家来たちに命じます。
「招いておいた人びとは、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」。
この命を受けて家来たちは通りに出て行き、
「見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった」。
ところが、客の中に「礼服を着ないで入って来たものがいた」、というのです。王はこの人を「外の暗闇にほうり出し」てしまいます。そして、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と語られます。

 この譬えが「天の国」の譬えとして語られており、同時にそれはイエスによってはじめられた「神の国」の到来の準備が整った、という「悔い改めて神を信ぜよ」との呼びかけに他ならないでありましょう。「神の国」到来の準備が「整いました」との呼びかけに「最初の人びと」すなわち神の民として選ばれたイスラエルの人びとは、答えることが出来ませんでした。彼らのこのような態度に王は町を焼かれます。ここには紀元70年のローマ軍によるエルサレムの滅亡の出来事が重ねられておりましょう。彼らが神の招きを喜んでいたにも関わらず、その招きに応ずることが出来なかったのは、王からの招きが何時なのか分からないと言う状態が長く続くうちに日々の生活とその習慣の中で招かれている喜びと緊張感が次第に薄れてしまっていたに違いないのです。王からの招待状は最初に招かれた人びとがそうであったように突然、思いがけない仕方で、予想など出来ない時に届けられるのです。その招きに答える備えが出来ているか、否かがわたしたちにも問われていると言えましょう。最初に招かれていた人びとは、神からの突然の呼びかけに応答することが出来ませんでした。
(→本田神父訳)「招いておいた人びとは歩みを共にする気がなかった」。
そこで、王は町の通りから「見かけた人は善人も悪人も皆集めてきた」のでした。王の招待は、たしかに突然に、わたしたちの計算や予想をはるかに超えて発行されるのですが、同時にその招きはわたしたちの考える善人・悪人といった枠組みや価値観を越えて行われる、ということでしょう。さらに、わたしたちの計算や予想、また経験をも超えて神の招きはなされている、と言えましょう。神の招きはわたしたちの思いを超えて、すべての人びとに普遍的に呼び掛けられていることを知らされます。しかし、そこに礼服を着ないで列席した人がいました。その人に対する厳しい王の姿勢は何を意味しているのでしょうか? いろいろな解釈が、この「礼服」に関して行われてきましたが、この人が婚礼の席に「用意されていたであろう」礼服を付けないで席に着いたとは、この人が他の多くの人びとと同じように全く「理由なしに」宴の席に招き入れられたと言う、驚きや喜びが失われてしまっている状態を表現しているように思います。勿論この礼服とは古い旧約の律法とは異なる「新しい律法」のこととも異なるでしょう。それは、王によって招かれたと言う喜び、それがもたらす新しい生き方の表現そのものではないでしょうか? この礼服を着ることの表現は、その人が新しい存在として誕生した喜びを言い表しておりましょう。預言者イザヤは歌います。
「わたしは主によって喜び楽しみ わたしの魂はわたしの神にあって喜び踊る。
 主は救いの衣をわたしに着せ 恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
 花婿のように輝きの冠ををかぶらせ 花嫁のように宝石で飾ってくださる」(イザヤ61章10節)。
パウロも礼服を着て「新しい存在」としての姿を、今日の使徒書フィリピの信徒への手紙の中で(4章4節)、
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。
(彼は続けて困難の多い働きの課程に触れた後)…いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」。
婚礼の礼服とは招かれた者がこのような「新しい存在」「新しい生き方」を生き始める姿のことに他ならないでありましょう。

 最初の記事が語っていますように招待状に日付がないことは、招きはその人の特権や所有権などではなく常に新しく(したがって計算や予定を超えて、思いもかけない仕方で)招かれている喜びの中で日々の仕事や営みを続ける「新しい存在」を生きることが求められているのではないでしょうか。「礼服」は、その喜びのしるし、この喜びの礼服を身に着けて日々を生きることに「選び」があることを記憶したいものです。 アーメン

08/04

聖霊降臨後第8主日(特定12) マタイによる福音書13章31~33, 44~49a節
司祭 関 正勝 師

 今日の福音は、先主日の「毒麦」のたとえに引き続いて、イエスは「天の国」に関して多くのたとえを語られています。マタイ福音書は「神」という言葉を用いるのを避けていますが、ルカ福音書などの「神の国」とほぼ同じことを指している、と言えましょう(マタイ10章7節「天の国は近づいた」 ルカ10章9節「神の国はあなたがたに近づいた」)。いずれにせよ、マタイ福音書は13章で「種蒔く人」のたとえに始まって、多くのたとえを用いて語られています。先主日の「毒麦」のたとえを、どのようにお聞きになられたでしょうか? 種を蒔く「ある人」とはイエスご自身のことでありましょう。蒔かれた種は「良い種」でしたが、イエスに逆らう「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」というのです。弟子たちは「毒麦を抜き集めて」しまおうと、性急な判断をします。それに対してイエスは「待つ」ことを求められています。このたとえは神が創造されたとき、「それは極めて良かった」(創世記1章30節)との現実から大きく離れてしまっている、わたしたちの世界の現実を見渡すとき、大きな嘆きと共に見えてくる世界の姿を表現しているように感じます。蒔かれた種は「良い種」だったのではないのですか? この悲劇的な現実に対する弟子たちの態度は、「待つ」という神の働きを先取りし、あるいは自分たちこそが「良い麦」であると自認して他の人を認めないで排除する態度に他ならないのではないでしょうか? わたしたちは、神の裁きを先取りしてはならないでしょう。勿論、神の行為である裁きを過小評価すべきではありませんが、過大評価することも避けたいものです。わたしたちはイエスから育つことが求められているのであって、「毒麦」探しをすることではないのですから。

 さて、イエスはこの13章で、「天の国」について多くのたとえを語られています。すなわち、今日の福音の「からし種のたとえ」(31~33節)、「パン種のたとえ」(33節)、「畑に隠された宝のたとえ」(44節)、「良い真珠を探す商人のたとえ」(45~46節)、最後は「漁師の網のたとえ」(47~50節)、このように多くのたとえを用いて「天の国」について語られたのには、たとえは語られようとしていることのすべてを語り尽くすことはできないからに他ならないでしょう。一つ一つのたとえには「天の国」の真理の、ある側面・部分が語られてはいても、その全体が言い表されることはできないからではないでしょうか? そのようなわけで「からし種」のたとえ、「パン種」のたとえが語られます。「からし種」は、「どんな種よりも小さい」がやがて成長すれば「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。こう語られるイエスはわたしたちの弱く小さな信じる者たちの歩みを励まし、勇気づけてくださっています。どんなに小さく、人には気づかれることもないかも知れないわたしたちの信仰の歩みも、神は育て養って成長させてくださる、ということではないではないでしょうか。また同じように小さな「パン種」も同様です。聖書に登場する「パン種」(酵母・イースト菌)は必ずしもプラスのイメージが与えられていません。むしろ悪いイメージです。出エジプト記では不潔なものとして取り除くことが命じられています。(出エジプト12章15節「…まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。…酵母入りのパンを食べた者はすべてイスラエルから断たれる」)。イエスご自身「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタイ16章6節)、パウロも「…古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」(1コリント5章6~7節)。イスラエルの人々の伝統からは評価されず、むしろ嫌われた不純なものと受け止められていた「パン種」をさえ、イエスは、「天の国」の発芽に欠かせない存在として語られて、わたしたち小さな者とその小さな、時に取るに足らないと思われる歩みさえ、「天の国」に通じる、と励ましておられます。人々が無視し、排除していた「パン種」についてイエスは「三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」と言われる言葉に注目したいと思います。「三サトン」とは約40トンになるとのことで、これで100人分ぐらいのパンができるそうです。それゆえ「パン種」は、実は触媒のような働きをしている、と言えないでしょうか。小さな存在で、人々からは気にも留められない存在である「パン種」が美味しく、豊かなパンを作り出していて、しかも自己主張をしていない。そのような存在こそ「触媒」なのではないかとわたしは思います。このようにイエスは人々が気にも留めないでその横を通り過ぎて行く「小さな存在」をもって「天の国」の発芽を見ておられたのではないでしょうか。

 ですから今日の福音の後半でイエスはまず「畑に隠された宝」とそれを偶然・たまたま発見した人の喜びを「持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」と表現されます。わたしたちがイエスに出会い、彼によって生かされている喜びを発見するのはある人にとっては「偶然」であるかも知れません。しかし、その人にとっては自分のどれほどの持ち物にも替えがたい「宝」なのです。一方、今一つのたとえでは懸命に「良い真珠を探している」商人が登場します。隠されていた宝を、それほど熱心に探し求めていたわけではない人とは対照的にこの商人は熱心に「良い真珠を探して」います。そして発見すると同じように、「持ち物をすっかり売り払い、それを買う」のでした。イエスとの出会いは、それほど深刻な悩みも人生への苦悩もなく偶然起こる場合もあれば、負い切れない苦しみや悩みに自分を問い詰めながら歩んで来て、やっとの思いでイエスに辿り着く場合もあることが示されている、と言えましょう。

 このようにイエスは神の働きについて、すなわち「天の国」について多くの側面があることを語ってくださっています。神は創造された世界が「極めて良かった」と言われる世界の完成のために働いておられます。神は「悪い者どもをより分けられる」。そのようにして神はすべての人の救いを完成されるのです。神はわたしたち人間と世界の創造者として、滅びではなく救いの完成のために働いておられることを心に留めて、何にも勝る信じる者の喜びを共に懐いて日々を歩む者でありたい、と願っております。

アーメン

07/22

聖霊降臨後第6主日(特定10) マタイによる福音書13章1~5, 18~23節
司祭 関 正勝 師

 今日の福音はマタイ福音書13章にしるされている「種蒔きの譬え」です。この譬えはマタイ福音書だけでなく、マルコ、ルカ福音書にも共に記されています。マタイ福音書13章には幾つかの「種」に関する譬えも記されています。

 ユダヤの民はイエスの語られることを聞こうとして、イエスの行くところ行くところに後を追うようにして集まって来ていました。今日の福音の場面でもイエスは「湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので」、イエスは船に乗ってそこから話し始められています。今日イエスが話された譬えは畑の上に蒔かれた種の話ですから、この譬えが湖の上から語られてということに少しばかりの違和感をわたしは感じてしまいます。しかし、この場面は押し寄せる多くの人々を前にして船の上に逃げ込むようにして立って話しておられるイエスの姿が、むしろ想像されてまいります。

 イエスは大工であった父ヨセフのもとで成長しましたが、大工仕事だけでなく彼はユダヤの人々の日々の暮らしの姿をよく学び知る者として成長していました。今日の譬えに出てまいります農家の人々の仕事振りについてもよく観察して知っておられたことが伝わってまいります。ユダヤの農夫たちの種蒔きは、わたしたちが知っているのとはだいぶ違っているようです。畑に畝を作ってその列に従って丁寧に種が置かれるようにして蒔かれるのとは違って、種蒔く人は畑一面に蒔くようです。絵画についてわたしはよく知りませんが、慣れ親しんだ絵にミレーの種蒔く人に描かれている農夫の姿を想像したらよいか、と思います。いずれにせよ、そのようにして種が蒔かれている情景をイエスは人々と生活を共にしておられたので、良く見て知っておられたのでしょう。

 農夫たちのそのような種蒔きの方法のゆえに、今日の福音書に語られているようなことが起こっていました。イエスはその情景を見て、蒔かれた種としての神のみ言葉の根付き具合を指摘されたのでした。きちんと整えられた畑にではなく、畑一面に種は蒔かれたのでした。その結果、ある種は道端に、石地に、茨の間に、そして良い地に蒔かれることになりました。イエスの生活者としての観察眼が捉えた姿は、わたしたちの信仰のさまざまな有り様を鋭く映し出すものとして示されることになっています。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。神から遣わされた「種蒔き人・イエス」の姿が端的に伝えられます。種が蒔かれた場所について考えてみたいと思います。「道端」についてイエスは、そこでは「(種を)鳥が来て食べてしまう」、さらに、「悪い者が来て、心の中に蒔かれているものを奪い取る」、と説明されます。「道端」とは、人々の往来が激しい場所でしょう。そのことで道端は踏み固められてしまっています。人々はその上を忙しく行き来しています。いろいろな生活上や仕事の上での関心事などなどで立ちどまって考えてみる暇さえないかのようです。その人はその踏み固められた路上で、自分がそのように忙しく歩き回っているのは何を求め、何のためであるのかをさえ見失いがちです。蒔かれた種が芽を出し、実をつけるのを心を静めて待つことが出来ません。即席の結果(や答え)を求めてやみません。やがて、新しい別の関心がその人の心を奪い、蒔かれていた種を枯らしてしまいます。

 「石だらけで土の少ない所」とは、「すぐ芽を出す」が、「日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまう」。さらにイエスは説明して、「根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」と言われます。根を持つこと、地中深く根をはることで木々や草花は堅固に、また美しく花を咲かせます。先日亡くなられたカトリックの渡辺和子シスターは『置かれた場所で咲きなさい』という本の中で、上に咲けないときは「地に根を張りなさい。」と語って仕事などがうまくいかないで挫折しがちな人々にエールを送った言葉は、真実と言わなければなりません。わたしたちが「御言葉のために艱難や迫害」に遭遇すると言う表現の背後には、福音書が書かれた時代のローマ帝国などからの迫害があったことでしょうが、現代においては複雑な姿を纏った「艱難や迫害」がわたしたちを襲いかねません。蒔かれた御言葉がわたしの内に根を張っていなければ、いとも簡単に華々しいこの世界の誘う言葉に根こそぎにされてしまうかウワベだけの信仰に陥ってしまいかねません。さらに「茨の間に落ちた」とは、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」と説明されています。茨や雑草の成長力や強さに蒔かれた種は成長を奪われて、枯れてしまいかねないのです。思い煩いへの警告は、すでに7章25節以下で思い悩みは神がわたしたちのことを心配して下さっていることを忘れていることに他ならない、とその不信を厳しく指摘されていました。自分の人生を自分の計算と予定によって成り立たせようとする態度は、神がわたしたちのことを思い悩んでおられることを見失っていることに他なりません。

 このように種蒔き人であるイエスによって蒔かれた種の落ちたいろいろな畑について思いめぐらします時に、わたし自身はその地が道端、石地、そして茨の生い茂るやせた地に他ならない自分の現実に驚き、悲しくなってしまいます。しかし、蒔かれた種は、良い地に落ちて百倍、六十倍、三十倍にも、と豊かに成長することが約束されていることに希望を持ちたいと思います。蒔かれた種は成長することが約束されているのです。「良い地」とは、「御言葉を聞いて悟る人」のことである、とイエスは言われます。「御言葉を聞いて悟る人」とは誰のことでしょうか? その人は、御言葉によってこの社会や世界のもろもろの現実を超越し、心を煩わされない人のことなのでしょうか? そうではなくて、「御言葉を聞いて悟る人」とは、たえずイエスの御言葉に耳を傾けて聞き、そして同時に自分たちの生活世界の現実の中でその御言葉を反芻し、ときには御言葉への疑問を懐き、そのように御言葉と自分が生きている現実との間の大きな割れ目に直面しながら、それでも、御言葉に頼ってイエスへの疑問を投げかけ続けて生きる人のことではないか、とわたしは思います。御言葉の正しさとその正しさに反逆するような自分の日々の現実、この両極端を見放すことなく山の狭い尾根を両側に自分の足を引っ張られながら目標を目指して歩く者こそ、多くの実を豊かに結ぶ良い地と言われるのではないでしょうか? 神の御言葉がわたしたちの日々の養いとなって、豊かな実を結ぶ者とされることを、共に願いたいものであります。
アーメン

06/18

聖霊降臨後第2主日 A年(特定6) マタイによる福音書9章35節~10章8, (9~15)節
司祭 関 正勝

 今日の福音はイエスが12人の弟子を召し出されて、「汚れた霊に対する権能をお授けになった。」という出来事が与えられています。召し出された弟子たちは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため」に、イスラエルの家の「失われた羊」のところへ派遣されて行くのでした。弟子たちは、このように大きな目的と使命を負って社会に向けて派遣されることになります。その大きな目的と使命とは、先主日わたしたちは「三位一体」主日を祝いましたが、その主日の意図は三位一体主日の聖書日課で旧約聖書の創世記1章1節~2章3節が記す、世界と人間の創造物語をもって伝えています。そこに三位一体の神を信じる信仰の所以が語られているようにわたしは思います。三位一体の神とは議論をすればするほど複雑になり抽象の世界に入り込んでしまいかねません。しかし、教会がその信じる神を三位一体、父なる神・子なる神・聖霊なる神はバラバラな三神がいる、ということではなくて、本質を一つとし、しかもその一つとするものは「愛」であり、それゆえわたしたち、神によって創造された世界と人間を神は万全を期して生かし、救われる神である、との人々の日々の神との交わりや経験が、人々をしてその信じる神を「三位一体の神」と信じ、告白するに至ったと言えましょう。神は創造された世界を見て「極めて、良かった。」と語られますが、わたしたちは知っています。現実、この世界のどこに「極めて、良い」という世界が存在するのか?ということを。このような深い疑惑の中で、わたしたちはこの世界は神によって創造されたのではない、という不信に沈んでしまいかねません。しかし、神はこのような世界とわたしたちの行状を天の高みから腕を組んで眺めて居られる神ではないのです。「愛」をその本質とし、一である父・子・聖霊である神は「極めて、良かった」世界を完成させるために、今も継続して、「神の像・協働創造者」としてのわたしたちと一緒に働いておられる。この経験、創造(救いの働きとしての)は今も継続中との経験が三位一体の神への信仰を誕生させた、と言えましょう。そこには神がこの世界と人間を創造され、したがって「良い」という現実を誕生させずには終わらない、という大いなる神への信仰が人々を困難のなかでも生かし続けた、と言えましょう。三位一体の神への信仰は、たえずわたしたちが陥りがちな小さな神に挑戦し「あなたの神は小さすぎる」と、問いかけ励ましてくださっているのではないでしょうか?

 そして、今日の主日、創造された世界とわたしたちの現実と使命が語られています。イエスはその御生涯で、この世界とわたしたちが決して「極めて良かった」とは言えない世界にあり、人々は相変わらず苦しみ、悲しんでいるのでした。イエスの目に映った人々の現実を 福音記者マタイは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」と記しています。(フランシスコ会の本田哲郎神父の訳「イエスは民衆を見て、はらわたをつき動かされた。彼らは、羊飼いのいない羊のように、むしり取られ、打ちひしがれていた。」『小さくされた人々のための福音』) このような悲惨な現実に対して、「神の像・協働創造者」としての人間の責任が問われております。わたしたち一人ひとりに負わされている責任「極めて、良かった」世界の実現に向けて働く責任が問われています。今日の福音は12人のイエスの弟子の召し出しであり、その使命・目的に在ります。弟子たちの使命は、わたしたちイエスを信じる者たち一人ひとりの使命を明らかにしていることに他ならないでしょう。神によって創造された世界を「神の像・協働創造者」であることをイエスとの出会いによって知らされた12人の弟子たち、そしてわたしたちを用いて完成させようと働いておられる三位一体の神は「平和があるように」と語る使命を託しておられます。「極めて、良かった」世界は、平和が実現している世界に他ならないでありましょう。その「平和」(シャロ-ム)は、誰一人その存在が貶められたり、抑圧・差別されたりすることなく、社会にとってなくてはならない一人ひとりであることが現実となっている社会に他ならないでありましょう。召し出された弟子たちに与えられた「汚れた霊に対する権能」とは、神以外の存在が神となる、偶像が人々を支配するようになる「悪霊」が差別や抑圧、そしてやがては戦いとなる現実を追い出す「権能」に他ならないでしょう。

 このような働きに派遣される弟子たちは、全く神が自分たちを養い、支え、導いていてくださる、という事実を弟子たちの立ち居振る舞いで伝えています。彼らはイエスの命じられるままに、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れないで、・・・袋も二枚の下着も、履物も杖も持つ(ことを赦されないで)」町々、村々に出て行き、その姿でもって神の万全な計らいと養いに生かされている、神が創造された人間の姿を表現して「平和」を語ったのでした。したがって、その「平和」(シャロ-ム)は、人間が決めた価値や基準(例えば経済力や軍事力、さらには学力や社会的地位などなど)によって、例えばアメリカファ-ストなどといった表現が作り出す「平和」(パックス)とは、根本的に違う共生・共に生き、生かされる世界に他なりません。その「平和」(シャロ-ム)こそが神が創造された世界である「極めて、良かった」世界に他ならないでありましょう。

 今日の旧約聖書の日課は、出エジプト記で十戒を授かるシナイ山に到着したエジプトを脱出したイスラエルの人びとが、神から「わたしの宝、・・・あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民」(19章5,6節)と語られる場面が与えられています。神によって創造された世界、人間は神にとっての「宝」また「祭司の王国、聖なる国民」だ、と宣言されています。誰もそのような大切な一人ひとりの存在を、特定の価値観、基準でもって貶め、奴隷にすることは赦されないことです。

 神を神としないで、わたしたちが偶像に跪き「悪霊」に支配されるとき、神が創造された「極めて、良かった」世界はわたしたちから遠ざかってしまうに違いありません。

 わたしたちの信じる三位一体の神は、悲しみや苦しみ、不条理な、と言いたくなる現実に不信や絶望に陥りがちなわたしたちの足を、万全を期して働いておられるその神がわたしたちを強め、励ましてくださっていることを確信して「極めて、良かった」と言われる日々のために共に生き、働くわたしたちとされたい、と願っております。
 ア-メン

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