関正勝司祭 説教原稿の記事一覧

08/04

聖霊降臨後第8主日(特定12) マタイによる福音書13章31~33, 44~49a節
司祭 関 正勝 師

 今日の福音は、先主日の「毒麦」のたとえに引き続いて、イエスは「天の国」に関して多くのたとえを語られています。マタイ福音書は「神」という言葉を用いるのを避けていますが、ルカ福音書などの「神の国」とほぼ同じことを指している、と言えましょう(マタイ10章7節「天の国は近づいた」 ルカ10章9節「神の国はあなたがたに近づいた」)。いずれにせよ、マタイ福音書は13章で「種蒔く人」のたとえに始まって、多くのたとえを用いて語られています。先主日の「毒麦」のたとえを、どのようにお聞きになられたでしょうか? 種を蒔く「ある人」とはイエスご自身のことでありましょう。蒔かれた種は「良い種」でしたが、イエスに逆らう「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」というのです。弟子たちは「毒麦を抜き集めて」しまおうと、性急な判断をします。それに対してイエスは「待つ」ことを求められています。このたとえは神が創造されたとき、「それは極めて良かった」(創世記1章30節)との現実から大きく離れてしまっている、わたしたちの世界の現実を見渡すとき、大きな嘆きと共に見えてくる世界の姿を表現しているように感じます。蒔かれた種は「良い種」だったのではないのですか? この悲劇的な現実に対する弟子たちの態度は、「待つ」という神の働きを先取りし、あるいは自分たちこそが「良い麦」であると自認して他の人を認めないで排除する態度に他ならないのではないでしょうか? わたしたちは、神の裁きを先取りしてはならないでしょう。勿論、神の行為である裁きを過小評価すべきではありませんが、過大評価することも避けたいものです。わたしたちはイエスから育つことが求められているのであって、「毒麦」探しをすることではないのですから。

 さて、イエスはこの13章で、「天の国」について多くのたとえを語られています。すなわち、今日の福音の「からし種のたとえ」(31~33節)、「パン種のたとえ」(33節)、「畑に隠された宝のたとえ」(44節)、「良い真珠を探す商人のたとえ」(45~46節)、最後は「漁師の網のたとえ」(47~50節)、このように多くのたとえを用いて「天の国」について語られたのには、たとえは語られようとしていることのすべてを語り尽くすことはできないからに他ならないでしょう。一つ一つのたとえには「天の国」の真理の、ある側面・部分が語られてはいても、その全体が言い表されることはできないからではないでしょうか? そのようなわけで「からし種」のたとえ、「パン種」のたとえが語られます。「からし種」は、「どんな種よりも小さい」がやがて成長すれば「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。こう語られるイエスはわたしたちの弱く小さな信じる者たちの歩みを励まし、勇気づけてくださっています。どんなに小さく、人には気づかれることもないかも知れないわたしたちの信仰の歩みも、神は育て養って成長させてくださる、ということではないではないでしょうか。また同じように小さな「パン種」も同様です。聖書に登場する「パン種」(酵母・イースト菌)は必ずしもプラスのイメージが与えられていません。むしろ悪いイメージです。出エジプト記では不潔なものとして取り除くことが命じられています。(出エジプト12章15節「…まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。…酵母入りのパンを食べた者はすべてイスラエルから断たれる」)。イエスご自身「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタイ16章6節)、パウロも「…古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」(1コリント5章6~7節)。イスラエルの人々の伝統からは評価されず、むしろ嫌われた不純なものと受け止められていた「パン種」をさえ、イエスは、「天の国」の発芽に欠かせない存在として語られて、わたしたち小さな者とその小さな、時に取るに足らないと思われる歩みさえ、「天の国」に通じる、と励ましておられます。人々が無視し、排除していた「パン種」についてイエスは「三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」と言われる言葉に注目したいと思います。「三サトン」とは約40トンになるとのことで、これで100人分ぐらいのパンができるそうです。それゆえ「パン種」は、実は触媒のような働きをしている、と言えないでしょうか。小さな存在で、人々からは気にも留められない存在である「パン種」が美味しく、豊かなパンを作り出していて、しかも自己主張をしていない。そのような存在こそ「触媒」なのではないかとわたしは思います。このようにイエスは人々が気にも留めないでその横を通り過ぎて行く「小さな存在」をもって「天の国」の発芽を見ておられたのではないでしょうか。

 ですから今日の福音の後半でイエスはまず「畑に隠された宝」とそれを偶然・たまたま発見した人の喜びを「持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」と表現されます。わたしたちがイエスに出会い、彼によって生かされている喜びを発見するのはある人にとっては「偶然」であるかも知れません。しかし、その人にとっては自分のどれほどの持ち物にも替えがたい「宝」なのです。一方、今一つのたとえでは懸命に「良い真珠を探している」商人が登場します。隠されていた宝を、それほど熱心に探し求めていたわけではない人とは対照的にこの商人は熱心に「良い真珠を探して」います。そして発見すると同じように、「持ち物をすっかり売り払い、それを買う」のでした。イエスとの出会いは、それほど深刻な悩みも人生への苦悩もなく偶然起こる場合もあれば、負い切れない苦しみや悩みに自分を問い詰めながら歩んで来て、やっとの思いでイエスに辿り着く場合もあることが示されている、と言えましょう。

 このようにイエスは神の働きについて、すなわち「天の国」について多くの側面があることを語ってくださっています。神は創造された世界が「極めて良かった」と言われる世界の完成のために働いておられます。神は「悪い者どもをより分けられる」。そのようにして神はすべての人の救いを完成されるのです。神はわたしたち人間と世界の創造者として、滅びではなく救いの完成のために働いておられることを心に留めて、何にも勝る信じる者の喜びを共に懐いて日々を歩む者でありたい、と願っております。

アーメン

07/22

聖霊降臨後第6主日(特定10) マタイによる福音書13章1~5, 18~23節
司祭 関 正勝 師

 今日の福音はマタイ福音書13章にしるされている「種蒔きの譬え」です。この譬えはマタイ福音書だけでなく、マルコ、ルカ福音書にも共に記されています。マタイ福音書13章には幾つかの「種」に関する譬えも記されています。

 ユダヤの民はイエスの語られることを聞こうとして、イエスの行くところ行くところに後を追うようにして集まって来ていました。今日の福音の場面でもイエスは「湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので」、イエスは船に乗ってそこから話し始められています。今日イエスが話された譬えは畑の上に蒔かれた種の話ですから、この譬えが湖の上から語られてということに少しばかりの違和感をわたしは感じてしまいます。しかし、この場面は押し寄せる多くの人々を前にして船の上に逃げ込むようにして立って話しておられるイエスの姿が、むしろ想像されてまいります。

 イエスは大工であった父ヨセフのもとで成長しましたが、大工仕事だけでなく彼はユダヤの人々の日々の暮らしの姿をよく学び知る者として成長していました。今日の譬えに出てまいります農家の人々の仕事振りについてもよく観察して知っておられたことが伝わってまいります。ユダヤの農夫たちの種蒔きは、わたしたちが知っているのとはだいぶ違っているようです。畑に畝を作ってその列に従って丁寧に種が置かれるようにして蒔かれるのとは違って、種蒔く人は畑一面に蒔くようです。絵画についてわたしはよく知りませんが、慣れ親しんだ絵にミレーの種蒔く人に描かれている農夫の姿を想像したらよいか、と思います。いずれにせよ、そのようにして種が蒔かれている情景をイエスは人々と生活を共にしておられたので、良く見て知っておられたのでしょう。

 農夫たちのそのような種蒔きの方法のゆえに、今日の福音書に語られているようなことが起こっていました。イエスはその情景を見て、蒔かれた種としての神のみ言葉の根付き具合を指摘されたのでした。きちんと整えられた畑にではなく、畑一面に種は蒔かれたのでした。その結果、ある種は道端に、石地に、茨の間に、そして良い地に蒔かれることになりました。イエスの生活者としての観察眼が捉えた姿は、わたしたちの信仰のさまざまな有り様を鋭く映し出すものとして示されることになっています。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。神から遣わされた「種蒔き人・イエス」の姿が端的に伝えられます。種が蒔かれた場所について考えてみたいと思います。「道端」についてイエスは、そこでは「(種を)鳥が来て食べてしまう」、さらに、「悪い者が来て、心の中に蒔かれているものを奪い取る」、と説明されます。「道端」とは、人々の往来が激しい場所でしょう。そのことで道端は踏み固められてしまっています。人々はその上を忙しく行き来しています。いろいろな生活上や仕事の上での関心事などなどで立ちどまって考えてみる暇さえないかのようです。その人はその踏み固められた路上で、自分がそのように忙しく歩き回っているのは何を求め、何のためであるのかをさえ見失いがちです。蒔かれた種が芽を出し、実をつけるのを心を静めて待つことが出来ません。即席の結果(や答え)を求めてやみません。やがて、新しい別の関心がその人の心を奪い、蒔かれていた種を枯らしてしまいます。

 「石だらけで土の少ない所」とは、「すぐ芽を出す」が、「日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまう」。さらにイエスは説明して、「根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」と言われます。根を持つこと、地中深く根をはることで木々や草花は堅固に、また美しく花を咲かせます。先日亡くなられたカトリックの渡辺和子シスターは『置かれた場所で咲きなさい』という本の中で、上に咲けないときは「地に根を張りなさい。」と語って仕事などがうまくいかないで挫折しがちな人々にエールを送った言葉は、真実と言わなければなりません。わたしたちが「御言葉のために艱難や迫害」に遭遇すると言う表現の背後には、福音書が書かれた時代のローマ帝国などからの迫害があったことでしょうが、現代においては複雑な姿を纏った「艱難や迫害」がわたしたちを襲いかねません。蒔かれた御言葉がわたしの内に根を張っていなければ、いとも簡単に華々しいこの世界の誘う言葉に根こそぎにされてしまうかウワベだけの信仰に陥ってしまいかねません。さらに「茨の間に落ちた」とは、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」と説明されています。茨や雑草の成長力や強さに蒔かれた種は成長を奪われて、枯れてしまいかねないのです。思い煩いへの警告は、すでに7章25節以下で思い悩みは神がわたしたちのことを心配して下さっていることを忘れていることに他ならない、とその不信を厳しく指摘されていました。自分の人生を自分の計算と予定によって成り立たせようとする態度は、神がわたしたちのことを思い悩んでおられることを見失っていることに他なりません。

 このように種蒔き人であるイエスによって蒔かれた種の落ちたいろいろな畑について思いめぐらします時に、わたし自身はその地が道端、石地、そして茨の生い茂るやせた地に他ならない自分の現実に驚き、悲しくなってしまいます。しかし、蒔かれた種は、良い地に落ちて百倍、六十倍、三十倍にも、と豊かに成長することが約束されていることに希望を持ちたいと思います。蒔かれた種は成長することが約束されているのです。「良い地」とは、「御言葉を聞いて悟る人」のことである、とイエスは言われます。「御言葉を聞いて悟る人」とは誰のことでしょうか? その人は、御言葉によってこの社会や世界のもろもろの現実を超越し、心を煩わされない人のことなのでしょうか? そうではなくて、「御言葉を聞いて悟る人」とは、たえずイエスの御言葉に耳を傾けて聞き、そして同時に自分たちの生活世界の現実の中でその御言葉を反芻し、ときには御言葉への疑問を懐き、そのように御言葉と自分が生きている現実との間の大きな割れ目に直面しながら、それでも、御言葉に頼ってイエスへの疑問を投げかけ続けて生きる人のことではないか、とわたしは思います。御言葉の正しさとその正しさに反逆するような自分の日々の現実、この両極端を見放すことなく山の狭い尾根を両側に自分の足を引っ張られながら目標を目指して歩く者こそ、多くの実を豊かに結ぶ良い地と言われるのではないでしょうか? 神の御言葉がわたしたちの日々の養いとなって、豊かな実を結ぶ者とされることを、共に願いたいものであります。
アーメン

06/18

聖霊降臨後第2主日 A年(特定6) マタイによる福音書9章35節~10章8, (9~15)節
司祭 関 正勝

 今日の福音はイエスが12人の弟子を召し出されて、「汚れた霊に対する権能をお授けになった。」という出来事が与えられています。召し出された弟子たちは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため」に、イスラエルの家の「失われた羊」のところへ派遣されて行くのでした。弟子たちは、このように大きな目的と使命を負って社会に向けて派遣されることになります。その大きな目的と使命とは、先主日わたしたちは「三位一体」主日を祝いましたが、その主日の意図は三位一体主日の聖書日課で旧約聖書の創世記1章1節~2章3節が記す、世界と人間の創造物語をもって伝えています。そこに三位一体の神を信じる信仰の所以が語られているようにわたしは思います。三位一体の神とは議論をすればするほど複雑になり抽象の世界に入り込んでしまいかねません。しかし、教会がその信じる神を三位一体、父なる神・子なる神・聖霊なる神はバラバラな三神がいる、ということではなくて、本質を一つとし、しかもその一つとするものは「愛」であり、それゆえわたしたち、神によって創造された世界と人間を神は万全を期して生かし、救われる神である、との人々の日々の神との交わりや経験が、人々をしてその信じる神を「三位一体の神」と信じ、告白するに至ったと言えましょう。神は創造された世界を見て「極めて、良かった。」と語られますが、わたしたちは知っています。現実、この世界のどこに「極めて、良い」という世界が存在するのか?ということを。このような深い疑惑の中で、わたしたちはこの世界は神によって創造されたのではない、という不信に沈んでしまいかねません。しかし、神はこのような世界とわたしたちの行状を天の高みから腕を組んで眺めて居られる神ではないのです。「愛」をその本質とし、一である父・子・聖霊である神は「極めて、良かった」世界を完成させるために、今も継続して、「神の像・協働創造者」としてのわたしたちと一緒に働いておられる。この経験、創造(救いの働きとしての)は今も継続中との経験が三位一体の神への信仰を誕生させた、と言えましょう。そこには神がこの世界と人間を創造され、したがって「良い」という現実を誕生させずには終わらない、という大いなる神への信仰が人々を困難のなかでも生かし続けた、と言えましょう。三位一体の神への信仰は、たえずわたしたちが陥りがちな小さな神に挑戦し「あなたの神は小さすぎる」と、問いかけ励ましてくださっているのではないでしょうか?

 そして、今日の主日、創造された世界とわたしたちの現実と使命が語られています。イエスはその御生涯で、この世界とわたしたちが決して「極めて良かった」とは言えない世界にあり、人々は相変わらず苦しみ、悲しんでいるのでした。イエスの目に映った人々の現実を 福音記者マタイは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」と記しています。(フランシスコ会の本田哲郎神父の訳「イエスは民衆を見て、はらわたをつき動かされた。彼らは、羊飼いのいない羊のように、むしり取られ、打ちひしがれていた。」『小さくされた人々のための福音』) このような悲惨な現実に対して、「神の像・協働創造者」としての人間の責任が問われております。わたしたち一人ひとりに負わされている責任「極めて、良かった」世界の実現に向けて働く責任が問われています。今日の福音は12人のイエスの弟子の召し出しであり、その使命・目的に在ります。弟子たちの使命は、わたしたちイエスを信じる者たち一人ひとりの使命を明らかにしていることに他ならないでしょう。神によって創造された世界を「神の像・協働創造者」であることをイエスとの出会いによって知らされた12人の弟子たち、そしてわたしたちを用いて完成させようと働いておられる三位一体の神は「平和があるように」と語る使命を託しておられます。「極めて、良かった」世界は、平和が実現している世界に他ならないでありましょう。その「平和」(シャロ-ム)は、誰一人その存在が貶められたり、抑圧・差別されたりすることなく、社会にとってなくてはならない一人ひとりであることが現実となっている社会に他ならないでありましょう。召し出された弟子たちに与えられた「汚れた霊に対する権能」とは、神以外の存在が神となる、偶像が人々を支配するようになる「悪霊」が差別や抑圧、そしてやがては戦いとなる現実を追い出す「権能」に他ならないでしょう。

 このような働きに派遣される弟子たちは、全く神が自分たちを養い、支え、導いていてくださる、という事実を弟子たちの立ち居振る舞いで伝えています。彼らはイエスの命じられるままに、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れないで、・・・袋も二枚の下着も、履物も杖も持つ(ことを赦されないで)」町々、村々に出て行き、その姿でもって神の万全な計らいと養いに生かされている、神が創造された人間の姿を表現して「平和」を語ったのでした。したがって、その「平和」(シャロ-ム)は、人間が決めた価値や基準(例えば経済力や軍事力、さらには学力や社会的地位などなど)によって、例えばアメリカファ-ストなどといった表現が作り出す「平和」(パックス)とは、根本的に違う共生・共に生き、生かされる世界に他なりません。その「平和」(シャロ-ム)こそが神が創造された世界である「極めて、良かった」世界に他ならないでありましょう。

 今日の旧約聖書の日課は、出エジプト記で十戒を授かるシナイ山に到着したエジプトを脱出したイスラエルの人びとが、神から「わたしの宝、・・・あなたたちはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民」(19章5,6節)と語られる場面が与えられています。神によって創造された世界、人間は神にとっての「宝」また「祭司の王国、聖なる国民」だ、と宣言されています。誰もそのような大切な一人ひとりの存在を、特定の価値観、基準でもって貶め、奴隷にすることは赦されないことです。

 神を神としないで、わたしたちが偶像に跪き「悪霊」に支配されるとき、神が創造された「極めて、良かった」世界はわたしたちから遠ざかってしまうに違いありません。

 わたしたちの信じる三位一体の神は、悲しみや苦しみ、不条理な、と言いたくなる現実に不信や絶望に陥りがちなわたしたちの足を、万全を期して働いておられるその神がわたしたちを強め、励ましてくださっていることを確信して「極めて、良かった」と言われる日々のために共に生き、働くわたしたちとされたい、と願っております。
 ア-メン

05/22

復活節第6主日 A年 ヨハネによる福音書15章1~8節
司祭 関 正勝

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(15:1)
 今日の福音は、イエスの弟子たちへの「別れのことば」からとられています。イエスはご自分がいよいよ十字架での死を直前にして特に弟子たちに向かって長い別れの説教をなさっておられます。その言葉がヨハネ福音書13章から16章までに残されています。この「別れのことば」には、ヨハネ福音書の特徴的な表現が用いられています。それはイエスがご自身のことを人々に直接的に言い表す時に用いる言葉です。即ちイエスはご自分のことを「わたしは・・・である」(ギリシア語でエゴ・エイミー)と語って、ご自身を表現されています。「わたしは、命のパンである。」(6:35)、「わたしは、世の光である。」(8:12)、「わたしは、羊の門である。」(10:7)、「わたしは、良い羊飼いである。」(10:11)、「わたしは、よみがえりであり、命である。」(11:25)
そして先主日の福音でもありました、「わたしは、道であり、真理であり、命である。」(14:6)、今日の主日では「わたしは、まことのぶどうの木である。」(15:1)、このように、「わたしは、・・・である。」というイエスご自身の表現はヨハネ福音書の特徴ある表現で、それはイエスがご自身を何者であるかを明らかにされるときに用いられるものである、と言われます。(7回も用いられています。)

 今日の福音ではご自身を「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と語り出されています。「ぶどうの木」とは、旧約聖書の中ではイスラエルのことを言う言葉でした。→イザヤ書の5章1節以下「ぶどう畑の歌」「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。」 その他エレミヤ書2章21節、エゼキエル書19章10節、ホセア書10章1節など。そのぶどう畑を神は特別な思いを込めて耕されます。イザヤは続けて語ります。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。・・・良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」 民族としてのイスラエルが神の選びを受け止めてその使命を全うすることが出来なかったことが語られています。このように神が託された使命を全う出来なかった現実を背景にして、「ぶどうの木」をイエスはご自身を指す言葉として使われています。そして、このこと自体が神からの使命を担えなかったイスラエルの人々にとっては厳しい批判と問い掛けに他ならなかった、と言えましょう。

 それゆえ、イエスがご自分のことを「わたしはまことのぶどうの木」と語られた時、弟子たちをはじめ人々はイエスがご自分を「まことのイスラエル」と明らかにされたことを知らされたに違いありません。そのように自己表現されたイエスはさらに「・・・わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」 「つながる」という表現は、今日の聖書日課ではカットされている9節以下では「とどまる」という表現がくりかえし用いられています。「よいぶどうの木」に「つながり・留まる」ことを決断した者は「豊かに実を結ぶ」と約束されるのですが、一方その選び取りと決断ができない者に対しては、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(6節) ここに語られていることはイエスを銀30で売り渡して、自ら命を絶ったユダのことが背景にあるように思います。この事件を通してイエスはわたしたちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と語って、命の木を選び、有機的ないのちの交流の中で豊かな実を結ぶことを選ぶことを求めておられます。9節ではさらに具体的に「父がわたしを愛されたようにわたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と、わたしたちに命じられます。この愛し合えとの命令の背後にはイエスというぶどうの木に留まっていることで「豊かな実を結ぶ」との祝福と約束があります。

 イエスのうちに「とどまる」ということは、何もしないでじいっとしていると言ったことではなく、わたしたちが互いに「愛し合う」ということであり、そのような困難な行為が求められているのはイエスが「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(16節)と言われるように、愛されていることへのわたしたちの応答として、絶えず感謝と悔い改めの働きによって可能となることに他ならないでありましょう。わたしたちの愛は神がこのわたしをまず愛してくださったという神の出来事があって、その出来事に応答することに他ならないでありましょう。神の愛の出来事はヨハネの第一の手紙に語られているように、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(1ヨハネ3:16)とあり、ここから「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(1ヨハネ4:11)との命令が与えられるのです。

 イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と宣言されて、さらに「あなたがたはその枝である。」と語られ、その繋がれたいのちの関係に「とどまる」ことをわたしたちに命じて、豊かに実を実らせることを求められています。このいのちの木である「まことのぶどうの木」につながってそこからいのちの水を受け取り養われなければ、わたしたちのいのちが「愛の働き」による豊かな実をむすぶことはできません。イエスは厳しく語られます。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」ユダがそうであったようにであります。わたしたちの働きや、世間からの評判がどれほど高く大きなものであっても、神の一人子の死に導き出され、神の出来事に応答する愛の働きでないなら、それは愛という名の自己主張、自己拡張による相手を所有し、支配しかねない行為に陥らないとの保証はどこにもないでありましょう。

 「まことのぶどうの木」から互いに愛し合うといういのちを与えられて、わたしたちの枝としての歩みが豊かな実を結ぶ、という約束を現実にもたらすことができるような歩みが日々出来ますように共に祈りあって生きるわたしたちでありたい、と願っております。

 アーメン

04/17

*関正勝司祭のご許可をいただき、
 神田キリスト教会 主日礼拝での説教原稿を
 掲載させていただくことになりました。

復活日 ヨハネによる福音書 20章1~10, (11~18)節
司祭 関 正勝

 ご復活日おめでとうございます。先主日ユダヤ教の過ぎ越しの祭にエルサレムに集まっていた群衆は詩編118編(25-26)の巡礼祝祭歌と言われる歌を歌ってイエスを迎えました。人びとは「自分の服を道に敷き、・・・木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と熱狂的に叫んでイエスを迎えました。やがて、イエスは捕らえられて総督ピラトの前に引きずり出されます。その前にイエスはオリーブ山にあるゲッセマネ(油搾りと訳される)で父である神に、激しい悲しみの中で苦しみの内に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と「血の汗流す」と表現されるように苦悩して祈っておられます。このようにイエスが祈っておられるときにも弟子たちは睡魔には勝てないで眠ってしまっています。「あなたがたは・・・わずか一時(いっとき)もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。・・・」落胆に近い言葉を共に歩んできた弟子たちにかけられます。ユダはお金でイエスを売り、第一の弟子であるペトロもピラトの裁判の庭でイエスが預言されたとおり「その人を知らない」と3度まで否認し、弟子たちはエルサレムから逃げてバラバラに散ってしまうのでした。このような状況の中でイエスは「悲しみの道」十字架への道を歩まれ、十字架に架かられました。マタイ福音書では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と大声で叫ばれます。これは詩編22編の言葉です。父である神に「見捨てられた」イエスの悲痛な叫びにわたしたちには聞こえます。しかし、イエスは父なる神への信頼と信仰は失っておられません。このような悲しみと苦しみの極みの中にあってなおイエスは「わが神」と呼び掛けておられます。御自分が信頼している存在への信仰が、この「わが神」との叫びにこめられております。

 そして3日後、「朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリア」はイエスを納めた墓に行きます。この朝の出来事の最初の発見者とそこでの出来事を弟子たちに伝えるのが、男性ではなくてこの女性であったことは注目されてよいことでありましょう。当時女性たちや子どもたちの証言は信頼性を疑われていたので、その事柄の記録がこうして留められたのは極めて重要であると言えましょう。とにかく、彼女の報告を受けてペトロともう一人の弟子が墓に駆けつけます。ペトロの方が、もう一人の弟子より遅れて墓に着く、という表現にどのような意味が込められていることかと想像したくなりますが。・・・鶏が鳴く前に3度まで「その人を知らない」と言って、イエスを否認したことへの後ろめたさがあったか? いずれにせよ、彼らは「墓に着いて、・・・見て、信じた。」 ヨハネ福音書は、彼らがただ「見て、信じた。」と書きます。原典には「何を見たのか?」を示す言葉がないのです。彼らは何を見たのでしょうか? イエスを納めた墓にはすでに何もなかったというのです。それまでそこにいた・存在していた者がいなくなることでより一層強く、身近にそこにいた者の存在が実感されることがあります。その存在が掛け替えのない、愛する存在であったりする場合、その存在がいなくなることで今まで以上にその存在を強く感じられるようになる経験があります。いわゆる「不在の在」とでもいえる事柄ではないか、と思います。墓の前に立つペトロ達の姿を極めて簡潔に「(何もないことを)見て、信じた。」と述べられているのは、このことではないでしょうか?

 一方復活の最初の証言者となったマグダラのマリアですが、男の弟子たちは「家に帰って行った。」のに、彼女は墓の前で泣きつづけています。「婦人よ、なぜ泣いているのか? だれを捜しているのか。」と問う人を園丁と間違えます。しかし、その人、実はイエスが彼女に「マリア」と呼び掛けます。この呼び掛けに彼女は気づかされます。そして叫びます。「ラボニ」(先生)と。この彼女の気づきはイエスによる「婦人よ」という普通名詞ではなくて、「マリア」という彼女を知る固有の名で呼ばれていることで起きています。そして、イエスは悲しみに打ちひしがれて立ち尽くすマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と命じ、やがて彼女は「わたしは主を見ました。 と告げ、また、主から言われたことを(弟子たちに)伝えた。」のでした。このようにして彼女は最初のイエス復活の証言者となったのでした。マグダラのマリアは、どのようにしてイエス復活の最初の証人となったのでしょうか? イエスの「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と言う言葉を受けて彼女は新しくイエスとの生きた交わりに入れられた、と言えましょう。彼女のそれまでの古い生き方、古い価値観といったものにより頼んで生きている自分を放棄して、新しい生き方を生きることをこのイエスの呼び掛けの言葉は促している、と言えましょう。

 信仰にはいつも過去との断絶、決別、喪失といったことが伴います。そのような決断を経て、わたしたちは新しい現実、新しい自分の誕生に出会ってきているのではないでしょうか? 成熟のためには喪失が不可欠であるとは真実ではないでしょうか? イエスが十字架上で「神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と絶望の淵に立って叫び、しかしなお彼には「わが神、わが神」と呼び掛け、信頼する「神」がいるのでした。信頼を否定されるような事態に直面して、新たに信頼する存在に出会う。別れによって新しい出会いが与えられる。そのような出来事こそ信仰の成熟に他ならないでしょう。イエスの復活に出会うと言うことは、わたしたちが「イエスにすがりつく」ことではなく、「どうして」と叫びたくなる自分たちの十字架を「わが神」への信頼をもって負い、わたしたちが新しく生き始めることに他ならないでありましょう。困難な日々がかならず新しい朝、新しい命に担われていることを受け止め直すことこそが、わたしたちの復活信仰に他ならないでしょう。ダマスコ途上で復活のイエスに出会ったパウロは繰り返し「福音を恥としない」(ローマ1:16)と自らを告白していますが、その背後には、「十字架につけられた神」を恥じないと言うことがありました。それゆえ彼は「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、わたしは弱いときに強いからです。」(Ⅱコリ 12:9, 10)「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリ 1:25) このパウロの確信を支えたのが復活の信仰に他ならなかったでありましょう。
アーメン
トップへ | 

プロフィール

カレンダー

カテゴリ

FC2カウンター

QRコード