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最新関正勝司祭 説教原稿の記事一覧

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03/15

関正勝司祭 説教 顕現後第6主日(C年)
ルカによる福音書 6章17~26節

 「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」(エレミヤ17:7)

 今日の福音は幸いと不幸についてのイエスの説教が与えられています。同じ説教がマタイ福音書にも記されています(マタイ5:1~12)。マタイ福音書では「山上の説教」となっていますが、今日のルカ福音書ではイエスが山の上から降りて来て弟子たちに語っているところが違っています。先主日の福音ではイエスがシモン・ペトロなど最初の弟子たちを召し出された時のことが語られておりました。イエスはその弟子たちと共に神の言葉と働きを人びとに伝えて、キリストとしての働きを開始されています。今日の福音書の直前の記述でも「おびただしい数の病人」が多くの地方からイエスの教えを聞き、また「病気をいやしていただく」ためにイエスのところに人びとが集まって来ていた、と記されています。そのように多くの人びとがイエスに病などをいやしてもらい健康を回復したいと願っていたのでした。イエスはそのような姿をある場面で「飼う者のいない羊」といった表現をし、その姿に心を深く痛めておられていたのでした(→「腸痛む」)。

 今日の福音はイエスが語られた説教にも近い短い言葉が与えられていますが、これらの言葉の背景には、イエスの時代に生きていた人びとの精神的にも肉体的にも苦しみや悲しみといった困難を抱えて生きなければならなかった人びとの現実と、そしてそれらの人びとを全く顧みようともしない多くの豊かな人びとの姿があった、と言えましょう。「貧しい人びと」「飢えている人びと」「泣いている人びと」さらには「憎まれ…人の子(すなわちイエスを信じる者たち)のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき」そのような人びとは「幸い」だ、と語られ、その反対に「富んでいる」者、「満腹している人びと」そして「今笑っている人びと」は「不幸」だ、と宣言されます。ここでイエスによって指摘されている「幸せ」「不幸」の対象とされている存在を限定し、特定することは出来ないと言うべきなのではないでしょうか? 現代の日本社会に目を移す時、貧富の格差社会は現実ですが、いわゆる絶対的貧困という状況は解消されているのではないでしょうか? 「貧しさ」という点に関しては極めて流動的になっているように思うのですが。もちろん、ここで語られている「貧しさ」を精神主義や観念的な理解の次元に落としてはならないと、私は考えます。このように申しますのは、現代における「貧しさ」は必ずしも物質的な貧しさではなく、精神的な、内面的な、いわば「枯渇感」といった状態で「貧しさ」を経験することが多いのではないでしょうか。精神的・内面的な「欠乏感」「充たされない感情」が、わたしたちの貧しさとしてあるように思います。

 イエスが「貧しい人びとは、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」と語られるとき、依然として存在する社会的な格差が産み出す貧困問題に関心を持ち、それに取り組む働きが求められていることを自覚しないではおられないのですが、同時に内面的・精神的な「貧しさ」、充たされないで不足と枯渇している自分自身の孤独な有り様に目を向けなければならない、と思うのです。今日の旧約聖書で預言者エレミヤはこのようにわたしたちに語ります。「呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。…祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。」

 わたしは現代社会における「貧しさ」を思います。それは一面的な捉え方になってしまっているとご批判を受けるかも知れませんが、預言者エレミヤが語る「呪い」と「祝福」を支える現実に思いを致したいと考えます。「貧しさ」とは、自らの「不足」・充たされなければならない自分の枯渇状態に気づかされないでいる状態を言うのではないでしょうか? 父なる神を求めないでも生きられるとし、それを「強さ・豊かさ」と感じてしまう、自己充足している自分を生きていることではないでしょうか? その姿は他者の存在や助けを必要としない孤立した生き方を貫く人のことではないでしょうか? 他者の助けを必要としない、否、他者が邪魔にさえなる人は結局、自分の不足を知らない人であり、その人は孤独の内に死ぬ。ギリシャ神話に出て来るナルシスのこと、マルチン・ブーバーが語った手の長い人の寓話、彼は結局食べ物を自分の口に入れることが出来ずに餓死してしまう。

 「貧しい人」・その人は自分の不足を知る人で、しかし人びとが提供する物の確かさや確からしさの不十分さを知っているがゆえに、「主を信頼する人」に他ならないでありましょう。その人は相手によって生かされ、支えられていることを知っているがゆえに共に生きようとし、そのことを喜びとしている人でありましょう。それゆえその人は「神の国はあなたがたのものである」と言われて、神の国が誰一人不必要とされない、神が創造された尊厳をもって生きることができる世界であることが示されているのであります。

 わたしは先々週のことですが、親しい交わりのうちにあったキリスト者である方の死を迎えなければなりませんでした。彼は木彫を生業とし、すばらしい作品をわたしたちに残してくださいました。彼は若い頃から喘息など多くの病を抱えて苦労の多い生活を強いられていました。78年の生涯でした。しかし、彼は本当に優しくて、人の痛みや悲しみに寄り添うことのできる人でした。入退院を繰り返すことが多く、必ずしも経済的に豊かとは言えませんでした。それにも拘わらず、いつも私たちのことを気にかけて心配してくれていました。最後となった入院の時も病床を訪問しようとする者に、院内にもインフルエンザが流行っているから来ないように、などと気を配ってくれる人でした。この彼の優しさは、彼自身が貧しさを知る人、憂いを知る人だったからだと思います。その貧しさは自分一人では生きてはいけない、他者の存在と助けを受け止めて生きて来た彼がいたからこそ「共に生きる」生かされるという「神の国」の前味を日々の生活の中で味わって生きることが出来たのだと私は信じます。彼は「主に信頼し、主をよりどころ」にしないでは生きられない、「貧しい」けれども、しかし真に「豊か」な「祝福された人」「神の国はあなたのもの」と迎え入れていることを私は堅く信じます。今日の福音、イエスの「幸いと不幸」の言葉を心に留めたいものです。
アーメン
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02/16

関正勝司祭 説教 顕現後第2主日(C年)
ヨハネによる福音書 2章1~11節

 「このぶどう酒はどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかった・・・」(ヨハネ2:9)
 今日の福音はイエスによる最初の、ガリラヤの「カナでの婚礼」の席で行われた奇跡の出来事です。この婚礼は、多分イエスとは親しい関係にある家、もしかしたら親戚筋の者の婚礼であったかもしれません。ですから、母マリアは宴席でのテーブルのうえに並べられてある食べ物、飲み物に何か不足があってはならないと心を配っているようです。実際彼女は婚宴の席にはかくことのできないぶどう酒が「足りなくなった」のにいち早く気づき、息子イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と伝えて、この緊急事態を息子イエスによって解決しようとします。マリアはイエスに何とかしてもらおうと考えています。この母マリアの態度はわたしたちがしばしば陥る態度でもあるように思います。自分の子どもを親が所有してしまいかねない態度です。親の希望を子どもに押しつけてしまいかねないことがしばしばあります。…少しわたし自身の陥った子どもとの経験に引き込みすぎた解釈であるかもしれませんが。…いずれにせよ、親子関係はとかく難しさを含んでいます。愛情という名のもとに相手を所有し、自分の思いを押しつけることにならないとは言えないことがしばしばありはしないでしょうか? 事実、婚礼の席で母マリアがイエスに「ぶどう酒がなくなりました」と言ったのは、このようなわたしたちにも通じる心情が支配していたに違いないように、わたしは思ってしまいます。

 ところがどうでしょう! イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と応じておられます。イエスはここで「お母さん」とは呼び掛けてはおられない。「婦人よ」とマリアを呼んでいます。ギリシア語で婦人とはグネー「女」、岩波訳は「女よ」と訳します。マリアは母親の立場で、しかしイエスは「婦人よ」また「女よ」と呼ぶことで、肉親の関係を超える立場を示しておりましょう。イエスにとって宴席でのぶどう酒が足りているかいないかなどということは問題にならない。彼にとっての重大な関心事は、彼の歩みによって打ち立てられる十字架の死と救い以外にはない。その決定的な時は未だ来ていない。マリアの関心事とイエスのそれとには決定的な違いと溝が存在していたのでした。マリアは深い悲しみを経てイエスが担おうとしている十字架の道に気づかされ、受け入れていくのでした。これから後、マリアはイエスが歩む十字架の道を悲しみを抱えながら共に歩むわけです。マリアはイエスの言葉を受けて、召し使いたちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と伝えます。

 そこにはユダヤ人の清めに用いる「石の水がめが六つおいてあった」。福音記者ヨハネは鋭い観察眼をもってユダヤ教の清めの儀式に用いる水がめの状況を捉えています。彼らが用いていた水がめは六つ。ユダヤの慣習で清いあるいは聖なるものの数は七つのはずです。しかし、ここには六つの水がめしかなかった。この状態が何を意味しているか、といえばユダヤの慣習としての清めの儀式の不十分さ・その不足が暗に表現されている、と言えましょう。とにかくこのような状況の中で、婚礼の席に不可欠なぶどう酒が不足してしまうという状態が生じてしまったのでした。母マリアとの親子関係を一端断ち切ったうえでイエスは人びとの求めに応じておられます。召し使いたちは命じられるままに水がめに満たされた水を宴席に運びます。その水はよいぶどう酒に変えられていました。宴会の世話役はこの現実に驚き、どこからこのぶどう酒は運ばれたのかと疑っています。これがイエスの最初の奇跡のあらましであると言えましょう。

 そして、この奇跡の核心は水が新しい良いぶどう酒に変えられた、という驚くべき事実にこめられた救い主イエスの誕生の喜びに他ならないでしょう。イエスが来られて新しい良いぶどう酒として、その命がわたしたちにもたらされた喜びの出来事が、今日の福音そのものであることに変わりはないでありましょう。

 しかし、いまひとつこの奇跡物語がわたしたち一人ひとりに語り掛け、そして求めている事柄について思いをめぐらしたいものです。それは最初に掲げた言葉、新しいぶどう酒を味見した世話役が口にした言葉を受けて発せられた表現。「このぶどう酒がどこから来たのか。水をくんだ召し使い(給仕)たちは知っていたが、世話役は知らなかった・・・」という記述です。よいぶどう酒に変えられる水がどこから持ってこられたのか、それを知っているのはただ給仕している人だけ、という点が重要にわたしには思えます。彼が立っている場所が重要に思えます。すなわち彼は宴会の中に居るのでもない。また全く宴会とは関係の無い世界に居るのでもない。彼らは内である宴会の中と外の世界の間に居るのです。給仕と言われるその人たちは外の世界を熟知していることが多い。しかも中で行われている宴会の様子に全く無知・無関心なわけではない。いずれの世界に対しても彼らは最前線に立って生活している、と言えないでしょうか? 彼らは外の世界で起こっている出来事や現実(水)を、中の宴席に持ちゆくことでその水を良いぶどう酒に変える機会を作っているのです。彼らがこのような宴席を新しいぶどう酒で喜びをもたらすことが出来るのは、彼らが、どっぷり外の世界にも、どっぷり内の世界にも漬かりきる、というか埋没してしまってはいないからに他ならないのではないでしょうか。彼らは外の世界と内の世界の中間・間にしっかりと生きているからこそ、外の世界を内の世界に、また逆に内の世界を外の世界に良いぶどう酒として持ち運ぶことができるのではないでしょうか?

 今日の福音の給仕たちの生き方・生きている場所の姿は、現代におけるわたしたちキリスト者の生活の場の姿を示唆してくれているようにわたしは思います。内と外、教会と社会との間といった狭い尾根(M・ブーバー)の緊張を生きることがわたしたちに求められているのではないでしょうか。この歩みを神の支えと導きの下に祈りながら新しい一年を共に励まし合いながら歩むわたしたちでありたいと願っております。
 アーメン

12/24

関正勝司祭 説教 降臨節第3主日(C年)
ルカによる福音書 3章7~16節

 今日の福音は先主日の洗礼者ヨハネの働きを一層明らかに伝えてくれています。先主日では彼は、「ヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた」(ルカ3章3節)と記されていますが、今日の聖書の箇所でも彼は、「聖霊と火でお授けになる方」メシア・キリストを指さし、証し、来るべき方の「道備え」をし、人々の「待つ」姿勢と在り様を整える者であり「宣べ伝える」宣教者であることを語っています。「待つ」者たちに求められている態度を、ヨハネは厳しく人々に迫っています。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(ルカ3章7, 8節)。「蝮の子」とは、神から離れて、その身を悪霊に委ねる者たちのことを指す辛辣な言葉です。今日のルカ福音書ではただその対象を「群衆」となって、一般化されていますが、マタイ福音書ではユダヤ教の宗教的指導者であるファリサイ派やサドカイ派の人々であったことが示されています。「蝮の子」と表現された彼らの怒りはどれほどあったかは容易に想像ができるでありましょう。しかし、悔い改めを求められている彼らの在り様は、さらにマタイによればこの厳しい言葉は、ユダヤ教の指導者や群衆に向けられただけでなく、洗礼者ヨハネの行者のような姿でもって彼らに語ったその姿は、ヨハネ自身にも向けられた厳しい言葉であった、と言えましょう。彼は「荒れ野」で「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(マタイ3章4節)。このようなヨハネの姿は、悔い改めを迫られている人間の姿そのものを彼自身がその行動によって人々に示していることに他ならなかったでありましょう。

 ヨハネは、さらに言葉を続けて彼らに追い打ちをかけるように語っています。「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」。ファリサイ派などの宗教的指導者たちの誇りは、それでも「自分たちは神に選ばれた父祖アブラハムの子孫である」ことによっていました。彼らは自分の出自を誇りにしていたのでした。ヨハネはそのような事柄を頼りにして自分を誇るそのこと自体に「蝮の子」の姿を見ているのでした。このような彼らの誇りを徹底的に打ち砕かれた彼らは、それまでの生き方の根底を激しく揺さぶられてヨハネに問い掛けます。「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と。この問いは極めて真剣な問いに他ならなかった、と言えましょう。彼らの生死にもかかわる問いでした。「悔い改めの実」が問われています。ヨハネはそれに答えてユダヤ教が要求した宗教的な祈りや断食、また施しなどではなくて、社会的な、貧しいものたちへの実践(持ち物の分け与え)でした。貧しさとは、もちろん物質的だけでなく精神的にも、孤独や差別といった現実に対する表現であります。人びとの社会の価値観などによって強いられた生き難さのことでありましょう。ルカ福音書が、「悔い改めの実」として単に宗教的な実践また功徳を積むといったことに限定して数え上げるのではなくて、社会的な拡がりをもって語っていることは大切な指摘ではないでしょうか? これらの必ずしも豊かではない自分たちの持ち物から分配する行為は、神が一人ひとりの必要を補い充たしてくださるとの信頼と信仰の表現に他ならない、と言えないでしょうか? パウロはこのように神によって養われることへの信頼に生きることをこそアブラハムの子と言い、こう言います。「信仰によって生きる人びとこそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」(ガラテヤ3章7節)と語り、それはこの「石ころからでもアブラハムの子たちを造り出してくださる」との信仰に他ならないのではないでしょうか?

 人びとに「悔い改めの実を結べ」と迫る洗礼者ヨハネは、「キリストの日」すなわちイエス・キリストが来られるその時の切迫している状況を、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と語って、「キリストの日」は人びとにとって裁きの日でもあることを証しています。幼子イエスの誕生は人びとに「悔い改めの実」を結んで生かされるか、それとも「蝮の子」として頑なに救いの呼びかけを拒否して滅びの道を選ぶのかの分かれ道の前に立たせます。しかし、この厳しい分かれ道と共に備えられている、わたしたちが救われ生かされるという神の約束が備えられてあることに驚かないではおられません。

 イエスが語られた「実らないいちじくの木」の譬えに耳を傾けたい(ルカ13章6節以下)。ある人がぶどう園にいちじくの木を植え、それが実を結ぶのを心待ちにしていた。しかし3年たっても実を見つけることができなかった。切り倒そうとするとそのぶどう園の園丁が主人に懇願して、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません」。緊迫した時間を生きている者たちにとって、この譬えは大きな慰めを伝えてくれるのではないでしょうか?

 幼子イエスの誕生にはこのような約束に基づく慰めと喜びが込められていることを感謝するわたしたちであると共に、「悔い改めの実を結ぶ」ことを待たれているわたしたち一人ひとりであることを喜ぶ者とされたい。それゆえ、洗礼者ヨハネの厳しい語り掛けの中から、同時にパウロが今日の使徒書であるフィリピの信徒への手紙で語る「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。…主はすぐ近くにおられます」(4章4節、5節)との力強い励ましの言葉を受けて、降臨節を臨みつつ、待ちつつ歩む者とされたい、と願っております。

アーメン

10/26

関正勝司祭 説教 聖霊降臨後第22主日(特定24)
マルコによる福音書10章35~45節

 ヤコブとヨハネの願い
 今日の福音はガリラヤを後にして、エルサレムに向かわれるその途上の出来事が記されています。今日の福音は三度の受難告知とそれに続く出来事です(三度の受難予告は、今日の福音の直前10章32節以下、および8章31節、9章31節)。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(10章33節) イエスはエルサレムでご自分の身に降りかかるであろう出来事を弟子たちにはっきりと語られています。しかもこのような残酷な出来事がご自身明らかになっておられるにも拘わらず、「イエスは先頭に立って進んで行かれた」(10章32節)。ご自身十字架と死を受け止められて、毅然とした態度でエルサレムを目指される姿が伝えられています。そのお姿に「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」とあります。この様な状況の中で先主日の福音では、一人の財産の豊かな男がイエスの前に「跪き」「永遠の命を受け継ぐには何をしたらよいか」との疑問を懐いて問いかけています。イエスに問われて彼はモーセの十戒の後半である「倫理規定・行動規範」を子どもの時から自分は守っている、と応じます。この男にはユダヤ教徒としての誇りがあったことでしょう。しかしそれにも拘わらず、心には大きく深い不安と疑問があったのでしょう。イエスはさらに「あなたに欠けているものが一つある」と語られます。「なお一つ足らず」という言葉は、何と厳しい言葉でしょうか? 私などは「一つ」どころか無数と言われそうなほどの多さの「欠けたモノ」があることを正直告白しないではおられません。しかし、頼みの綱はこの富める男をイエスは「見つめて」(10章27節 岩波訳は「慈しんで」「彼を愛した」とします) 「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と励ましてくださっていることです。「神は何でもできる」と語って、わたしの希望となってくださっているからこそ、わたしは絶望しないで生きる勇気を与えられているのではないでしょうか。

 さて、今日の福音ではイエスがご自分の身に起こるご受難のことを行動を共にしてきた弟子たちに受難告知をされた後に、ヤコブとヨハネが、イエスが「栄光をお受けになるとき(それはイエスにとってはご自分の死を意味していたのですが)・・一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。 以前にも、彼ら弟子たちは、だれがいちばん偉いかと議論し合っていました(9章34節)。なんとしたことか?ヤコブとヨハネは。 ところが実際には他の十人の弟子たちも同様であったことが分かります。マルコは書いています。「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた」と。彼らもヤコブやヨハネと同様に誰がいちばん偉いのかと競い合わないではおられなかったように思います。そこで再びイエスは十字架を直前にして弟子たちに、ご自分の生涯がそうであるように「仕える者」になれ、と語って、「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と力を込めて彼らに諭されています。この大いなる語りかけをパウロは受け止めてわたしたちに伝えています。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとしてご自身を献げられました」(1テモテ 2章5, 6節)。この真実をイエスの十字架と死は激しくわたしたちに伝えています。今日の旧約聖書は苦難の僕と言われるイザヤ書が語る、神の僕が背負う苦難は「すべては可能」とご自分を告白される神は、わたしたちの日々の生活の中でプラスだと思い、マイナスだと考えるすべてのことがらを「可能」へと・いのちへと結び合わせてくださる神であることを語っています。イザヤは声を大にして伝えます。「・・彼は自らを償いの献げ物とした。・・彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。・・・」(イザヤ53章10, 11節)

 この神の前で偉くありたいと考えるわたしたちは、絶えず「なお一つ足りない」と神を信じて、生かされている自分に問いかけられている言葉を深く思いたいものです。それは同時に、「神にはできる。神は何でもできるからだ」と語ってくださるイエスが十字架から語ってくださっていることに信頼と希望を持って生きるわたしたちでありたいと願っております。

アーメン

03/23

大斎節第5主日 ヨハネによる福音書 12章20~33節
 司祭 関 正勝 師

「一粒の麦、地に落ちて死ななければ」
 今日の福音はヨハネによる福音書12章20節以下にしるされたイエスの最後のエルサレムでの一週間の始まりの出来事が伝えられています。イエスは弟子たちと共にエルサレムに入られました。その時はユダヤの最大の祭りである過ぎ越しの祭りを祝うためにユダヤ全土から人びとがエルサレムに集まって来ていて、エルサレムの町は人びとでごった返していました。ユダヤの人びとがこの過ぎ越しの祭りに込めた期待は大層大きなものがありました。それと言うのもこの祭りは他でもない、エジプトで奴隷として苦役を強いられていた自分たちの先祖がモーセに導かれて苦役の地から脱出し、解放された、その時を記憶する祭りだったからです。イエスの時代にあってもユダヤの人びとはローマによって支配され、統治されて、貧しく苦しい状態を強いられていました。そのような彼らにとってイエスは「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」(12章13節)と期待を込めて呼びかけるにふさわしいお方と受け止められて、エルサレムに彼は迎え入れられるのでした。このようにイエスと弟子たちがエルサレムに入城された時は、過ぎ越しの祭りに込められた民族的な救いへの期待とイエスの生涯が人びとにもたらした驚きと期待、幻滅と希望といったことが入り混じった歩みが重なり合って、人びとは熱狂しエルサレム全体が興奮の坩堝となっていた、と言っても言い過ぎではなかったでありましょう。

 この祭りに異邦人であるギリシャ人が来ていて、彼らのある者たちがフィリポを介してイエスに会いたいと願い出ます。このことがイエスに自分の働きがギリシャの地にも伝えられていることを知らせることとなり、ついにイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られます。これまでもイエスは幾たびか「わたしの時はまだ来ていない」と語って、その時が神の栄光を表す時、それは彼にとっては神の意志としての自らの死を差し示していたのでした。エルサレムでイエスの身に起こる事柄は、まさにご自分の十字架上の死にかかわる事柄でした。訪ねて来たギリシャ人たちがイエスに問い掛けたことの内容はわかりませんが、しかしイエスは彼らに答えるようにして自分が一体何者であるか、その生涯が何であるかを彼らに語るのに、ご自分がどのような死を迎えるのかを語り明かそう、とされたのでした。人は生きてきたようにしか死ねない、とよく言われますが、イエスの死は彼の生涯が何であったかを語ります。

 イエスにとって死は、彼の働きが何であるかを示す出来事に他ならないのですが、しかしイエスは死を目前にして激しく悩み苦しんでおられます。ヨハネ福音書以外の福音書には「ゲッセマネの祈り」としてイエスの父である神への激しいばかりの叫びにも等しい祈りが記されています。イエスは「ひどく恐れてもだえ始め」、弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコによる福音書14章34節)と、語られています。今日の福音書でも27節にその祈りが記されます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。“父よ、わたしをこの時から救ってください”」。イエスが父に祈っている「この時」とはご自分の苦しみから逃れて、解放されたい時ではない。十字架上での死が真実、神の救いの力を示すことになるのか、もしかして人びとには神の力がこの世界の力に屈して敗北することになりはしないか、救いは十字架の死以外に表される道はないのか、といったイエスの苦悩と試みの時を語っておりましょう。これは十字架上でのイエスの言葉と同じくイエスの真剣な祈りであり、問い掛けでもありました。この激しい問い掛けの後、しばらくの沈黙があって、ついにイエスは語ります。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と。何と大いなる「しかし」でありましょうか。ゲネサレト湖で夜通し漁をして、しかも不漁で終わったシモン・ペトロにイエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし」なさいと命じますが、漁師としてのペトロの経験と誇りがこのイエスの命令の前に壁となってしまいますが、やがてペトロは「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、イエスの言葉に従った物語が想い起こされます(ルカによる福音書5章5節)。今日の福音におけるイエスの「しかし」も日常的な経験や常識、生活の知恵といったものを打ち破り変革させる、いわば「大いなる転換」ともいうべき「しかし」でありましょう。この転換があってイエスは「父よ、御名の栄光を現してください」(→主の祈りの第一の祈り「御名が聖とされますように」)と祈られるのでした。

 こうしイエスはわたしたちに「永遠の命に至る」道を、十字架上の死を通してもたらされる新しい命への道を示されたのでした。それは一粒の麦が地に落ちて死ぬことで多くの実を結ぶ道でした。死が命をもたらす、という逆説的な真理を一粒の麦の種の譬えをもって示されたのでした。終わりが、そのまま終わりではない。
 今学校は卒業式のシーズンを迎えていますが、「卒業」は必ずしも若者たちの終わりではない。そうではなくて新しい始まりに他ならないでありましょう。実際一粒の麦が自分自身の中に閉じこもってしまえば新しい命の芽は生えいでない事でしょう。人びとの目にはおろかに思える姿と方法をもって、神の新しい命に至る道が示されています。イエスは言葉を続けて「自分の命を愛する者は(本田神父訳「執着する者」、岩波訳「愛着する者」)、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は(本田神父訳「この世にからめ取られた自分自身を憎む者」)、それを保って永遠の命に至る」と語られます。一粒の麦の譬えは、さらにわたしたちが見失いがちな現実に引き寄せて語られます。自分の命が脅かされるような経験が新しい命の誕生をもたらすということを。ところが自分の命が無菌のまま純粋・無垢のままであることを願って他者と交わることを拒否している限りわたしたちは、孤独のうちに死ぬでありましょう。 しかし、傷つきながら他者と交わることで新しい命・新しい自分が誕生します。わたしたちは失うこと・喪失によって成熟することがしばしばであることを経験しているのではないでしょうか。別れが出会いを!

 事実、イエスの生涯とその十字架上での死はわたしたちの世界に新しい命に至る道に招かれて歩む者たちを呼びかけ招きかけ続けていることを、その招きにあずかっているわたしたち一人ひとりの歩みが証しするものであることを信じたいものであります。 

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