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最新牧師コラムの記事一覧

02/17

 マタイ福音書5章1節以下に「山上の説教」があります。イエスは、山に登られて弟子たちを教えられました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」から始まる八福です。すべてが幸いで終わります。不幸の教えはありません。そして、「その人たちのものである」と三人称を用いています。ルカ福音書は、山から下りて平地で教えられます。「幸いと不幸」とありますが、新しい共同訳聖書には「幸いと災い」となっています。不幸はオウアイで、災いとも訳せます。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」とルカは二人称で力強く記します。21節の「満たされる」と「笑うようになる」は未来形であり、「満たされるだろう」であり「笑うようになるだろう」であります。ルカはマタイのように「心の貧しい人々」とは記しません。ルカは「貧しい人々」であり、徹底的に貧しい人々であります。心底貧しい人々は、神に出会うのです。富んでいる人々は、神に出会うことはありません。この世の人や物に飽かされて慰められています。この世のものにではなく、神にのみ信頼する人は、幸せです。神の国は、あなたがたのものなのです。

顕現後第6主日 B年
 エレミヤ書 17章5~10節
 詩編 第1編
 コリントの信徒への手紙一 15章12~20節
 ルカによる福音書 6章17~26節

02/10

 今日の福音書には「漁師を弟子にする」とあります。この個所は、1~3節と4~11節の2つに分けられます。5:4~9節はルカの独自の話です。イエスは群衆に舟の中から教え終わると、シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と応えます。漁師が夜通し漁をして魚がとれません。日中に漁をしてとれるでしょうか。言葉はレーマですが、事柄、出来事という意味もあります。シモンは、お言葉ですから、わたしは網を降ろしますと言うのです。シモンは、わたしはあなたの言葉に従うと言うのです。おびただしい魚に皆驚きます。シモン・ペトロはイエスの足下にひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言います。シモンは、多くの魚がとれるとは思っていません。イエスはシモンに「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われます。イエスの言葉は出来事へと実現します。イエスは罪深い人間をも用いられます。漁師たちは、すべてを捨ててイエスに従います。イエスの言葉は成ります。

顕現後第5主日 B年
 士師記 6章11~24a節
 詩編 第25編1~10節
 コリントの信徒への手紙一 15章1~11節
 ルカによる福音書 5章1~11節 

02/03

 今主日の福音書は、先主日の最後の個所から読まれます。「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」が最後であり最初になります。実現したは、プレイロオーで満たされる。耳の中にみ言葉が満たされると実現されます。同じ語が28節の「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し」にもあります。「人々はみなこれを聞いて怒りに満たされた」のです。同じプレイロオーでも、神のみ言葉が実現したと人々の怒りが実現したでは大きな違いです。ナザレの人々は驚きながらも「この人はヨセフの子ではないか」と侮ります。イエスは、預言者は故郷では歓迎されないものだ」と言われます。この歓迎と19節の「主の恵みの年」の恵みは同じ語でデェクトスです。イエスは「主の恵みの年を告げる」ために来られたのですが、故郷の人々は受け入れません。イエスは、エリヤのように身内の者へではなく外の者へ宣教されます。イエスは、ナザレの人々の怒りの真ん中を平然と通り過ぎていきます。カファルナウムの人々は、イエスの権威に驚きます。ナザレの人々も驚きましたが、カファルナウムの人々は侮りではなく、イエスの権威を見いだします。イエスの権威は人々に仕えることです。

顕現後第4主日 B年
 エレミヤ書 1章4~10節
 詩編 第71編1~6, 15~17節
 コリントの信徒への手紙一 14章12~20節
 ルカによる福音書 4章21~32節

01/27

 荒れ野で誘惑を受けられた後、イエスはガリラヤで伝道を始められます。会堂はシナゴーグで、安息日に集まり、聖書を読み祈ります。聖書はビブリオンと言い、巻物になっています。ビブロス、つまりパピルスから作られた紙です。当時は、羊皮紙でありました。旧約聖書と記されていますが、律法、預言者、諸書の頭文字をとってタナハと言います。今日、イエスが読まれた箇所はイザヤ書61:1,2で「主の恵みの年」です。17節後半に「個所が目に留まった」と新共同訳聖書にはありますが、新しい聖書協会共同訳は「個所を見つけた」とあります。見つけるのヘウリスコーは、見つけ(探し)出す、尋ねあてる、悟るという意味もあります。イエスは偶然にその個所を開いたのではなく、意図的に開いて読まれたのです。油を注がれることは、メシア(キリスト)になられることです。貧しい人に福音を告げ知らせることはキリストの業です。捕らわれている人に解放(アフェイシス)、圧迫されている人に自由(アフェイシス)、目の見えない人に視力の回復のためは、「主の恵みの年」を伝えるキリストの宣教です。イエスは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳(の中に)にしたとき、実現(満たされる)した」と言われました。

顕現後第3主日 B年
 ネヘミヤ記 8章2~10節
 詩編 第19編1~11節
 コリントの信徒への手紙一 12章12~27節
 ルカによる福音書 4章14~21節

01/20

 ガリラヤのカナは、イエスが育ったナザレの北十数キロのところにあります。カナの婚礼の教会が建てられています。買い求めたぶどう酒は濃いもので、水で割って飲むそうです。ぶどう酒は換金作物で、いつも飲めるものではなかったようです。婚宴は通常七日間執り行われました。勿論、美味しい食べ物がたくさん振る舞われ、ぶどう酒も饗されたことでしょう。ユダヤ人が清めに用いる石の水瓶が六つある家です。一つの瓶には百リットル入りますから、六百リットルはかなりの量です。ユダヤ教に厳格な家です。婚礼も大きいものでした。そのとき、何と最も必要で大切なぶどう酒が足りなくなったのです。マリアは心配する立場にあったようです。母マリアは息子イエスに訴えかけますが、イエスは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と言います。父なる神が命じなければ、わたしには何も出来ない。わたしの十字架や復活の時も父なる神が決められるというのです。しかし、イエスは大量の水を良いぶどう酒に変えてくださいます。宴会の窮地と母マリアの心配を救ってくださいます。大きな奇跡ではありませんが、窮地を救う小さくても大切なしるしです。

顕現後第2主日 B年
 イザヤ書 62章1~5節
 詩編 第36編5~10節
 コリントの信徒への手紙一 12章1~11節
 ヨハネによる福音書 2章1~11節

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