最新牧師コラムの記事一覧

04/23

 イエスがそうであれば、わたしたちも死に支配されたままでいることはありえません。これは死なないことではなく「死に支配されない」ということです。悪意ある人間にひどい目に合わされる、しかし自分が愛され尊敬を受けるべき存在として生きることは可能です。加害者を憎み続ければ加害の事実に支配されたままになってしまいます。自然の営みの一つである当然の死ですらわたしたちを支配できない、それが復活信仰です。嫉妬、やっかみ、憎しみ、恨み、悲しみ...。わたしたちはそれらを避けることができない弱い人間ですが、それらに支配されない自由さと真の強さを神は与えてくださいました。罪人ですがわたしたちを支配しているのは神です。

復活節第2主日 A年
 使徒言行録 2章14a, 22~32節
 詩編 111編
 ペトロの手紙一 1章3~9節
 ヨハネによる福音書20章19~31節

04/17

 キリストとともに死んだ者だけがキリストとともに復活させられる、ということです。現実的なことではなく霊的なこと、信仰上のことがらとして理解することなら可能ですがそれだけではいけないと思います。手紙の著者は「地上のもの」をひどく嫌っていますが、わたしたちの日常は「地上」の日々であって、それを無視して気持ちだけ「天上」に上ってしまうなら単なる現実逃避になってしまいます。見える現実に支配されず見えないものに希望をかけて生きることがキリスト者の姿と言えるでしょう。不条理な現実に絶望せず、自分の弱さに落胆せず、「キリストと共に神の内に隠されている」(3節) 復活の命にあずかっている喜びを分かち合いたいものです。

2017年4月16日 復活日 A年
使徒言行録 10章34~43節
コロサイの信徒への手紙 3章1~4節
ヨハネによる福音書 20章1~18節

04/09

 これは「荒野の誘惑」の続きです。イエスは特別な力で人々を助けてきましたから、逮捕や裁判から逃れることはできたはずです。自分に不利な証言を論破することも、大祭司やピラトを説き伏せることもできたに違いありません。福音書の物語は、イエスにそれ以上の力があることを存分に示しています。イエスは自分が助かろうとは思わずあえて死を選んだのか。それとも、イエスの能力は他者を救うためのもので自分のためには使えないものだったのか。苦しみや死を避けようとしないイエスの姿は多くの人の理解を超えることかもしれません。しかし、自分のために祈る時と誰かのために祈る時、どちらが真剣な祈りになるかなら、わたしたちにもわかるはずです。

復活前主日 A年
イザヤ45:21-25 または イザヤ52:13-53:12
フィリピ2:5-11
マタイ(26:36-75), 27:1-54, (55-66)

04/02

 人間は死すべき存在。イエスはラザロの死に際しその姉妹マルタとマリアに「決して死なない」と断言しています。物語でラザロは生き返りますが、そのラザロもいつの日か天寿を全うして死ぬことになるはずです。イエスにとって肉体的な死が問題ではなかったということでしょうか。そんなことはありません。死別を嘆く人々を放っておくことができないイエスは、人々が不条理な死に直面して苦しむ様子を放置できない方でした。信仰は不老不死をもたらすことはない。自らの限界を受け入れることがむしろ信仰の課題であるとわたしたちは知っています。死は厳粛な現実ですが、それによって打ち消されることのない何かがある。イエスを信じるとはその何かを信じることかもしれません。

大斎節第5主日
 エゼキエル37:1-3, (4-10), 11-14
 ローマ:6:16-23
 ヨハネ:11:(1-16), 17-44

03/26

 暗闇から光へ! 創世記からつながる一貫した聖書のメッセージです。「闇」という言葉で表現されているものは多様ですが、この手紙に書かれているような道徳的なことだけでなく、そこから悪が生じ争い、苦しみ、悲しみが生じてしまう、そのようなもののことのようです。イエスはわたしたちに「世の光」として歩めと教えられました。それは、闇を照らすためであって、光にだけ関心を向けよということではありません。ご自身が光であり光の子の模範として歩んだイエスはひとりの人間として愚かさや下品な冗談の世界、争いや苦しみの世界を生き抜きました。そのイエスがわたしたちを善意・正義・真実を必要とする現場に駆けつけて使命を果たすようにと招いているのです。

大斎節第4主日 A年
 サムエル上16:1~13
 詩編23 
 エフェソ5:(1~7), 8~14
 ヨハネ9:1~13, (14~27), 28~38

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