最新牧師コラムの記事一覧

03/26

 暗闇から光へ! 創世記からつながる一貫した聖書のメッセージです。「闇」という言葉で表現されているものは多様ですが、この手紙に書かれているような道徳的なことだけでなく、そこから悪が生じ争い、苦しみ、悲しみが生じてしまう、そのようなもののことのようです。イエスはわたしたちに「世の光」として歩めと教えられました。それは、闇を照らすためであって、光にだけ関心を向けよということではありません。ご自身が光であり光の子の模範として歩んだイエスはひとりの人間として愚かさや下品な冗談の世界、争いや苦しみの世界を生き抜きました。そのイエスがわたしたちを善意・正義・真実を必要とする現場に駆けつけて使命を果たすようにと招いているのです。

大斎節第4主日 A年
 サムエル上16:1~13
 詩編23 
 エフェソ5:(1~7), 8~14
 ヨハネ9:1~13, (14~27), 28~38

03/19

 「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(4節) というパウロの言葉は多くの人々を励ましてきましたが、これは信仰とは無縁の言葉であり、むしろ人間の経験に基づくものではないでしょうか。人は誰でも「希望の弁証法」を知っているし、塾ではこのように受験生を励ましてきたはずです。辛い経験は人間を成長させる、苦難に耐えることで自信が生じる、その自信によって次の可能性を見出すこと。これはこの世のものであり成功者の哲学です。しかし苦難に耐え切れず、自信を喪失した人間に福音は聞こえてこないのでしょうか。負けても絶望しない、自分の弱さを真正面から見つめる。頑張ればなんとかなるという経験則を越えた先にある希望。これはわたしたちが生み出すものではなく与えられるものだと思うのです。

大斎節第3主日
 出エジプト記17章1~7節
 詩編95編6~11節 または 95編
 ローマの信徒への手紙5章1~11節
 ヨハネによる福音書4章5~26, (27~38), 39~42節

03/12

 イスラエルの指導者であったニコデモとの問答でイエスは、「風は思いのままに吹く。〜霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言いました。

 「イエスよ、お前はどこから来たのか」という議論であれば、わたしは風のように自由であってあなたたちには捉えようのない存在だという答えが成り立ちます。しかしこれはイエス自身のことではなく「霊から生まれた者」のこと、「風のように自由」なのは洗礼によって新たに生まれたわたしたちのことなのです。

 生まれや育ち、財産、能力、性格などで「あなたはこういう人間だ」と決めつけられない存在として、わたしたちは自由に生きているでしょうか。「ちりから生まれてちりに帰る」存在であることを知ることで、人は自由になれるはずです。大斎節は二度目の主日を迎えました。

03/05

 「罪」と訳された言葉は本来「的外れ、道を踏み外す」という意味の言葉だそうです。人間誰もが経験する失敗や、良かれと思って自己中心的な行動をして誰かを深く傷つけてしまう、そんなこともここには含まれているような気がします。多くのクリスチャンが思っているほど聖書における「罪」の概念は深刻でも陰鬱でもない、とわたしは思います。「エデンの園」の物語もこっけいな説話のように思えます。中世ヨーロッパの神経質で詮索好きな司祭たち、プロテスタントの道徳主義的異端審問官、そしてファリサイ派や律法学者たちの呪縛からわたしたちを解放するのはイエスの福音です。人間は弱い存在、それをご存じの方は溢れんばかりの恵みを注いでくださいます。

大斎節第1主日(A年) 創世記2:4b~9, 15~17, 25~3:7 ローマ5:12~19 マタイ4:1~11

02/26

 聖書には「父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」という言葉もあります(マタイ5:48)。けれどもわたしたちは、信仰生活を通して悟りを開いたとか完全な者となったという実感は無いはずです。大切なことは正しい目標を知っていること、自分は途上の存在だと知ることではないでしょうか。信仰者であるとは求道者であること。目標の達成度、到達度も問題ではありません。聖公会の特徴は立派な教会であることではなく正しい方向に向いていることだと言われます。もしも「賞」が得られるものならキリストを通して神が与えて下さるものをいただきたい。パウロの願いはわたしたちの願いでもあります。

大斎節前主日 A年:出エジプト24:12~18、フィリピ3:7~14、マタイ17:1~9

プロフィール

カレンダー

カテゴリ

FC2カウンター

QRコード