牧師コラムの記事一覧

02/19

 人はだれでも自分が可愛いもの、利己的であるのは人間の本性だという人がいます。素朴な意味ではそうかもしれませんが、本当に自分自身を「愛する(=大切にする)」ことがどれほど難しいか、知らない人はいないはずです。これは思春期特有の自己嫌悪感の問題ではありません。誰かに認めてもらいたい、愛されたいという思いから、SNSの「友だち」や「いいね!」のような軽い承認に頼りたくなるのがわたしたちの姿です。

 自分を直視すればするほど「自分自身を愛するように」という言葉の重みがわかるはずです。「私のことなどどうでもいい、世界平和が先決だ」などという空虚な正義感や愛情は聖書のメッセージとはことなります。自分に向き合い、たとえ満足できる点数ではなくても受け入れるようにと聖書は促しています。自分自身を大切にするその想いが隣人へと向けられるのでなければ、本当の愛には至らないのではないでしょうか。

顕現後第7主日 レビ:19:1~2, 9~18 詩編71:16~24 コリントⅠ3:10~11, 16~23 マタイ5:38~48

02/14

 自動車の自動運転が現実の話になりそうです。けれども、自動運転の車に乗ると決めるのはもちろん人間です。「すべて神に委ねるのが信仰」と考えることもあるでしょうが、人生とは自動運転の車に乗ることではないし、信仰は天国行きの指定席に座ることでもないことは誰もが知っています。自分の判断だけに頼れば独善ですが、自分で何も判断しない無責任さも考えものです。「人事を尽くして天命を待つ」、自分にできることは最善を尽くし、結果が良くても悪くても神に委ねて冷静に受け止める。わたしたちの取るべき態度はそのようなものでありたいと思います。祈り、聖書を読み、助言を受けながらも最後に決めるのは自分自身。神に与えられた「判断する力」を尊いものとして活かすことも信仰です。

02/05

 わたしたちが「正しく生きよう」と考えていても、人間の利己的な判断からは間違った結論が引き出されてしまうかもしれません。よかれと思って、人は相手を傷つけます。それが取り返しの付かない間違いかもしれません。それでも聖書は、わたしたちは「地の塩、世の光」として生を受け、その使命を立派に果たすことができると教えています。

 だからわたしたちの祈りはこうなります。謙遜に互いに聞き合って考え方を整理して「行うべきこと」を定めます。そして隣人愛も兄弟愛も言葉としてではなくわずかでも実践されなければ意味がありません。その実践は、人間の能力ではなく神の恵みによるのだと信じ、やはり謙遜に、そして忠実に、目の前のことに向き合うことができればと思います。

顕現後第5主日A年 ハバクク3:1-6, 17-19 コリントⅠ2:1-11 マタイ5:13-20

01/29

 神を仰いで生きるとはどういうことか、信仰者の生き方とは何か、キリスト教の霊性において大切なことは何かという根本的な命題がここに示されています。この部分の訳には諸説ありますが、ローマ・カトリック神学者グティエレスの提案にわたしは賛成です。

 「公正な社会の創造に参与し、そこで責任ある行動を
 とって生きることは、なんとめぐみに満ちたことだろ
 うか」


 正義を実践し慈しみを大切にすることが、まさに「神とともに歩むこと」だという洞察は福音書の光に照らし出された解釈です。「神とともに歩む」こと以上に恵みあふれる人生はあり得ません。

 「人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている」という預言者の宣言は、犠牲の奉献や種々の礼拝が神の望んでいることではないという前提に続きます。必要なことは何か、幸せな人生とは何か、あなたはすでにわかっているではないかと預言者は呼びかけているのです。

01/22

 「獅子がほえる、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる、誰が預言せずにいられようか」(アモス3:8)。教会の働きはこのように行われるものだ、と思わされる一節です。教会は、信徒が減ってきたから、財政が苦しいからといって何かをするのではありません。ライオンの叫びに誰もが恐怖を感じるように、頭で考えるのではなく脊髄反応のようにこらえようもなく行動してしまうこと、それが教会の働きの姿なのでしょう。預言者アモスにとってそれは預言すること、神の言葉を語ることでした。あれこれと考えすぎては自分自身を見失いかねません。一番得意なことがその人の強みです。聖書が与える感動、祈りによる平安、礼拝の素晴らしさ、奉仕の喜び...。わたしたちの教会は素晴らしい!という思いからすべてが始まります。
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