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最新牧師コラムの記事一覧

09/09

 イエスの時代は、乗り物に乗ることなくすべて徒歩でした。地中海沿いのティルスから、その北のシドンまでは40㎞あります。そこから内陸のデカポリスまでは100㎞ほどあります。とても非効率的な旅です。しかし、イエスの宣教は、この広い地域に住む人々がイエスの教えを待ち望んでいることにあります。人々は、イエスのもとに耳が聞こえず舌の回らない人を連れてきて、イエスに手を置いてくださいと願います。イエスはこの人だけを連れ出します。イエスの奇跡はこの人に限られます。主イエスは、両指を彼の両耳に入れ、その後、治癒力のある唾をつけ、その舌に触れます。イエスは、パンの奇跡を行った時と同じように天を仰いで深く息をつき「エッファタ」と言います。これはイエスが話していた当時のアラム語です。意味は「開け」です。たちまち、耳が開け、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになります。もつれはデスモスで、縛るもの、紐、綱、鎖、枷とも訳せます。鎖や枷は人を縛るものです。イエスは、天を仰いでうめきをもって、縛られ不自由にされた人を自由にしてくださいます。「エッファタ -開け-」は「あなたは、それで いい」と聞こえます。人はこの言葉によって受け入れられ解き放たれます。

聖霊降臨後第16主日 B年 特定18
 イザヤ書 35章4~7a節
 詩編 第146編5~10節
 ヤコブの手紙 1章17~27節
 マルコによる福音書 7章31~37節

09/02

 「昔の人の言い伝え」と題がありますが、岩波聖書では「父祖たちの言い伝え」と訳しています。「エルサレムから来て」は、ファリサイ派が権威ぶっていることを示します。「汚(けが)れた手」の説明として「洗わない手」とあります。手を洗うことは、衛生上に清潔にするためではありません。手がよごれていなくても洗うのです。市場から戻ったら身を清めます。杯は勿論、寝台までも洗います。汚れはコイノスで、共通(有・同)の、普通(日常)の、世俗の、という意味があります。世俗的だから、祭儀的に汚れている、清くないとなります。彼らは、父祖たちの言い伝えに固執して、祭儀的な習慣をこの世に持ち込み適用させようとします。祭儀的な行為をしていない人たちを非難するためです。レビ記15章に「汚れと清め」の規定がありますが、漏出についてです。食事の前の手洗いは、神の掟にありません。それは、イエスの言われる「人間の言い伝え」であって人を差別するためのものです。イエスは「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」と言われます。隣人を大切にする人は差別が見えます。差別が見える人は全き自由に至ります。

聖霊降臨後第15主日 B年 特定17
 申命記 4章1~9節
 詩編 第15編
 エフェソの信徒への手紙 6章10~20節
 マルコによる福音書 7章1~8, 14~15, 21~23節

08/26

 ヨハネ6章からの4回目の福音書になります。1回目は「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである…わたしが命のパンである」でした。2回目は「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」です。3回目は「わたしを食べる者もわたしによって生きる…このパンを食べる者は永遠に生きる」でした。今主日は「永遠の命の言葉」と題があります。イエスの周りには12弟子の他に大勢の弟子たちがいました。彼らは「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言いました。ひどい話とは、天から降って来たことでしょうか。それとも、わたしの肉と血を食べ飲むことでしょうか。あるいは、二つ一緒でしょうか。彼らは、つぶやき躓きました。躓くは、スカンダリゾォーで罪である不信仰に誘われました。イエスは「信じる者たちがだれであるか、裏切る者がだれであるかを知っておられた」とあります。裏切るは、パラディドーミで売り渡すです。次に「父からのお許し」の許しは、ディドーミで37節「お与えになる」、44節「引き寄せて」であり、引き渡すことです。イエスを売り渡す人たちは、イエスを離れます。父なる神によってイエスに引き渡された人たちは、イエスが神の聖者であることを知ります。売り渡すか、引き渡されるかは大きな違いです。

聖霊降臨後第14主日 B年 特定16
 ヨシュア記 24章1~2a, 14~25節
 詩編 第34編15~22節
 エフェソの信徒への手紙 5章21~33節
 ヨハネによる福音書 6章60~69節

08/19

 福音書は「イエスは命のパン」とあり、今日はその3回目です。食べることが6回、飲むことが4回あり、食べるは普通に食べるエスティオーが2回、バリバリと音をたてて食べるトローゴ-が4回用いられます。人の子イエスの肉を食べ、血を飲むことは尋常ではありません。イエスは「わたしの肉を食べ、血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。食べ飲む者は永遠の命を得、その人を終わりの日に復活させる。わたしを食べ飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。わたしを食べる者は、わたしによって生きる」と言われます。祈祷書聖餐式文の中に「『取って食べなさい。これはあなたがたのために与えるわたしの体です。わたしを記念するため、このように行いなさい』また食事の後『皆この杯から飲みなさい。これは罪の赦しを得させるようにと、あなたがたおよび多くの人のために流すわたしの新しい契約の血です。飲むたびにわたしの記念としてこのように行いなさい』」とあります。キリストは、わたしたちに永遠の命を与えるためにわたしたちに食べられる者になりました。聖餐式でキリストを食べる者は隣人に食べられる者となって生きます。これがまことの食べ物・まことの飲み物です。

聖霊降臨後第13主日 B年 特定15
 箴言 9章1~6節
 詩編 第34編9~14節
 エフェソの信徒への手紙 5章15~20節
 ヨハネによる福音書 6章53~59節

08/12

 今日の箇所には「イエスは命のパン」とあります。先主日は6:24~34で今日はその続きです。6:37~40までの箇所は、葬送式や通夜の祈り、また逝去者記念の祈りの中で朗読される福音書の一つでしばしば聴く機会があります。「意志」と「御心」は同じティレイマで4回、「終わりの日に復活させる」は3回、「永遠の命」は2回、「わたしは(天から降って来た)命のパン」は6回用いられています。イエスは天から降って来た命のパンであり、このパンを食べる者は永遠の命を得、終わりの日に復活させられます。天から降って来たパンは、ユダヤ人の先祖が食べたマンナとは違います。彼らは死にました。しかし、天から降って来た命のパンを食べる者は、永遠の命に生かされ、終わりの日に復活させられます。なぜなら、イエスが与えるパンは、世を生かすご自分の肉だからです。イエスのパンである肉を食べる者は、イエスによってまことの命を与えられ、永遠の命に至ります。父が、その人をイエスに引き寄せてくださるからです。死に至るマンナを食べるだけで
あったわたしたちをイエスのもとに引き寄せてくださいました。食べる者が、主イエスと同じように食べられる者に変えられます。イエスは永遠の命の方角を示します。

聖霊降臨後第12主日 B年 特定14
 申命記 8章1~10節
 詩編 第34編1~8節
 エフェソの信徒への手紙 4章30~5章2節
 ヨハネによる福音書 6章37~51節

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