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03/27

 モーセに引き連れられたユダヤの民は、エジプトを脱出してシンの荒れ野に至ります。水のない荒れ野で命の危機を感じた民はモーセに、荒れ野で殺すためにわたしたちを連れてきたのかと叫び、飲む水を与えよと迫ります。数の上で優位の民は、モーセを脅迫し、神さえも試すのです。

 詩編第95編の作者は、主のみ前にひざまずこう、メリバやマッサでしたように心をかたくなにしてはならないと言っています。優位にある民は、それを失いたくないためにより心が固くなるのです。

 使徒書でパウロは、苦難をも誇りとします。…苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。…敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われているのはなおさらですと言っています。弱さの中にあってキリストに罪赦された者は、苦難で終わるのではなく希望につながるのです。

 旅に疲れ果てたイエスは、サマリアの女に水を飲ませてくださいと言うと女は驚きます。ユダヤ人はサマリア人と交際しないからであると説明されているように、ユダヤ人はサマリア人と言葉を交わすこともないほどにサマリア人を軽蔑しています。生きた水の意味を理解できないサマリアの女ですが、イエスがこの山でもエルサレムでもないところで、父を礼拝する時が来る。霊と真理とをもって父を礼拝する時が来る。父はこのように礼拝する者を求めておられると言います。

 女がキリストと呼ばれるメシアが来られることは知っていますと言うと、イエスはそれはこのわたしである(キリスト宣言)と言われます。女を通して町の多くの人々はイエスを信じます。しかしそれ以上に、町の多くの人々は直接にイエスの言葉を聴いて信じる者とされます。サマリア人たちは、弱さの中にあるからこそイエスをキリストと信じることができるのです。

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