最新2017年08月の記事一覧

08/27

聖霊降臨後第11主日(特定15)
マタイによる福音書15章21~28節
司祭 関正勝師

 今日の福音は、ユダヤの指導者たちファリサイ派や律法学者らとの古くからの言い伝えを巡って議論されたイエスは(ユダヤ教の指導者たちの頑ななまでの律法への固執に対してイエスは「あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」と批判されます。マタイ15章6節)、ユダヤの指導者たちの律法主義的な態度を「偽善者」と言って厳しく批判されました。その結果、彼らからその命をさえつけ狙われる状況に追い込まれていました。このユダヤの指導者たちから命を狙われるような厳しい状況に追い込まれていました。このユダヤの指導者たちから命を狙われるような厳しい状況にあったイエスと弟子たちの一行は、エルサレムの地を離れてティルスとシドンの地方に行かれます。その道行きはユダヤ人の追っ手から逃れるような姿でした。ティルスとシドンの地はユダヤの人びとからは通行さえしたくない、嫌われていた地であったようです。しかもその途中で一行は、この地に生まれたカナンの女に出会います。カナンとは、これもティルス、シドンと同様にユダヤから「異教徒の地」として軽蔑の対象とされていた町でした。終われるようにしてエルサレムを離れるイエスと弟子たちの一行は、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」と叫んで後を追いかけてくるカナン生まれの女性に出会います。イエスは、この女性の真剣な願いからの叫びに耳を貸さないかの如く、沈黙されています。その沈黙は、彼女の願いを拒否しているようにさえ見えます。そのイエスの態度を見てなのか、弟子たちがイエスに「この女を追い払って下さい。叫びながらついてきますので」と訴えます。この女性は、ユダヤの人と自分たち異教徒との間に立ちはだかる大きく高い壁など意識していないかのようにイエスの前に進み出て娘の癒しを願っています。しかもこの女性はイエスに向かって「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。・・」と叫ぶのです。この呼び掛けは、イエスを待望のメシアであると告白しているわけです。壁を越えられないのは、弟子たち自身であったように見えます。この弟子たちの態度は、僅かの魚とパンで多くの人びとをイエスが養われた際の弟子たちの態度と同じように思います。彼らは困難を抱えて自分たちの前にやって来た人に対して、どうか自分たちに面倒を掛けないでくれ、自分たちが直面している困難はそれぞれ自分たちの手で解決してくれ!と。いわゆる、自己責任を持ち出しているかのようです。

 弟子たちの冷たい態度もさることながら、イエスは次のように言われます。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と。イエスの口から出たとは到底考えられない言葉ですが、同じ記事がマルコ福音書7章24節以下にありますが、この言葉はそこにはありません。マタイの特異な視点が(ユダヤ中心主義の)、この言葉をイエスの口に乗せて書いているのではないでしょうか? そして、ついに当時のユダヤ社会で一般的に用いられていた諺と言われる、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われます。ここで「子供」とはイスラエルの人々、「小犬」とは異教徒のことを指しているでしょう。この諺そのものは何と差別的な言葉であることでしょう! この言葉に疑問を持ちながら、カナンの女とイエスの対話を聞いてみたい、と思います。わたしは、この対話に耳を傾けながら気づかされたことは、この女性の求めの真実さ、であり、直面している困難の重さゆえに人々が作っている常識的な隔ての中垣を乗り越えてイエスに求めを直接ぶつけている情熱的な信仰の姿でした。

 イエスの一見、カナンの女性に対する冷たい拒絶の姿勢は、彼女の信仰をより確かで真実なレベルへと導き高めているように思います。彼女はイエスが諺をひいて答えられていることに対して、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。何という応答でしょうか? 自分たちのことを「小犬」とまで言われる、大きな侮辱をものともしないで、「しかし、小犬も・・・」、と受け止め返すこの強さ、いや熱心さに彼女の求めの真実をイエスは見て取られています。そして、言われます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と(本田哲郎神父訳「おお、婦人よ。貴方の信頼にみちたふるまいは大したものだ。あなたの願い通りになるように」)。

 カナンの女のこの信仰の姿勢を、ある説教者は「食い下がる信仰」と表現しました。わたしたちはいろいろな求めと願いをもって祈り、イエスの前に出ます。その際、わたしたちは「私の願う通りではなくても、主よ、あなたの思いがこの身になりますように!」と祈ることが出来ているでしょうか? 今日の女性の祈りは強靭な信仰と信頼のうちに成り立っていて、ある意味ユーモアさえも感じさせてくれます。旧約聖書 創世記32章29節以下にヤコブが何者かと明け方まで格闘した出来事が記されています。その格闘の際、ヤコブの腿の関節が外れるほどの傷を負い、格闘している相手がヤコブには勝てないと思い「もう去らせてくれ」と願うのですが、ヤコブは、それまで彼を苦しめて格闘しているその者に向かって「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と言い、格闘している相手からの祝福を(イスラエルと言う名)与えられています。今日の福音に登場するカナンの女性の「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」との応答に、わたしたちはヤコブが自分を苦しめている現実と格闘しながら、その苦しみが無くなろうとするその時にその苦しみから祝福・苦しみの意味を教えてから去ってくれと迫る態度と同じ情熱を感じます。イエスは今日の福音によってわたしたちに「求めなさい。そうすれば与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。開かれる」(マタイ7章7節)ことを伝えてくださっているのではないでしょうか。

 わたしたちの主を信じ、信頼することにおいて、絶えず深み、あるいは高みに至る訓練がされているのではないでしょうか? 日々の生活の中でわたしたちが主に願い、求めないではおれない困難や悲しみに直面します。願い求めることに、諦めたり絶望してしまったりすることなく「求め、捜し、門をたたき」続けていることでしょうか? わたしたちの求めや願いがカナンの女性「小犬」と呼ばれて拒絶されても、なお「しかし、主よ、小犬も」と主なる神に迫る「食い下がる」信頼を懐くわたしたちでありたいものです。
アーメン

プロフィール

カレンダー

カテゴリ

FC2カウンター

QRコード