2017年08月04日の記事一覧

08/04

聖霊降臨後第8主日(特定12) マタイによる福音書13章31~33, 44~49a節
司祭 関 正勝 師

 今日の福音は、先主日の「毒麦」のたとえに引き続いて、イエスは「天の国」に関して多くのたとえを語られています。マタイ福音書は「神」という言葉を用いるのを避けていますが、ルカ福音書などの「神の国」とほぼ同じことを指している、と言えましょう(マタイ10章7節「天の国は近づいた」 ルカ10章9節「神の国はあなたがたに近づいた」)。いずれにせよ、マタイ福音書は13章で「種蒔く人」のたとえに始まって、多くのたとえを用いて語られています。先主日の「毒麦」のたとえを、どのようにお聞きになられたでしょうか? 種を蒔く「ある人」とはイエスご自身のことでありましょう。蒔かれた種は「良い種」でしたが、イエスに逆らう「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」というのです。弟子たちは「毒麦を抜き集めて」しまおうと、性急な判断をします。それに対してイエスは「待つ」ことを求められています。このたとえは神が創造されたとき、「それは極めて良かった」(創世記1章30節)との現実から大きく離れてしまっている、わたしたちの世界の現実を見渡すとき、大きな嘆きと共に見えてくる世界の姿を表現しているように感じます。蒔かれた種は「良い種」だったのではないのですか? この悲劇的な現実に対する弟子たちの態度は、「待つ」という神の働きを先取りし、あるいは自分たちこそが「良い麦」であると自認して他の人を認めないで排除する態度に他ならないのではないでしょうか? わたしたちは、神の裁きを先取りしてはならないでしょう。勿論、神の行為である裁きを過小評価すべきではありませんが、過大評価することも避けたいものです。わたしたちはイエスから育つことが求められているのであって、「毒麦」探しをすることではないのですから。

 さて、イエスはこの13章で、「天の国」について多くのたとえを語られています。すなわち、今日の福音の「からし種のたとえ」(31~33節)、「パン種のたとえ」(33節)、「畑に隠された宝のたとえ」(44節)、「良い真珠を探す商人のたとえ」(45~46節)、最後は「漁師の網のたとえ」(47~50節)、このように多くのたとえを用いて「天の国」について語られたのには、たとえは語られようとしていることのすべてを語り尽くすことはできないからに他ならないでしょう。一つ一つのたとえには「天の国」の真理の、ある側面・部分が語られてはいても、その全体が言い表されることはできないからではないでしょうか? そのようなわけで「からし種」のたとえ、「パン種」のたとえが語られます。「からし種」は、「どんな種よりも小さい」がやがて成長すれば「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。こう語られるイエスはわたしたちの弱く小さな信じる者たちの歩みを励まし、勇気づけてくださっています。どんなに小さく、人には気づかれることもないかも知れないわたしたちの信仰の歩みも、神は育て養って成長させてくださる、ということではないではないでしょうか。また同じように小さな「パン種」も同様です。聖書に登場する「パン種」(酵母・イースト菌)は必ずしもプラスのイメージが与えられていません。むしろ悪いイメージです。出エジプト記では不潔なものとして取り除くことが命じられています。(出エジプト12章15節「…まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。…酵母入りのパンを食べた者はすべてイスラエルから断たれる」)。イエスご自身「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタイ16章6節)、パウロも「…古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」(1コリント5章6~7節)。イスラエルの人々の伝統からは評価されず、むしろ嫌われた不純なものと受け止められていた「パン種」をさえ、イエスは、「天の国」の発芽に欠かせない存在として語られて、わたしたち小さな者とその小さな、時に取るに足らないと思われる歩みさえ、「天の国」に通じる、と励ましておられます。人々が無視し、排除していた「パン種」についてイエスは「三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」と言われる言葉に注目したいと思います。「三サトン」とは約40トンになるとのことで、これで100人分ぐらいのパンができるそうです。それゆえ「パン種」は、実は触媒のような働きをしている、と言えないでしょうか。小さな存在で、人々からは気にも留められない存在である「パン種」が美味しく、豊かなパンを作り出していて、しかも自己主張をしていない。そのような存在こそ「触媒」なのではないかとわたしは思います。このようにイエスは人々が気にも留めないでその横を通り過ぎて行く「小さな存在」をもって「天の国」の発芽を見ておられたのではないでしょうか。

 ですから今日の福音の後半でイエスはまず「畑に隠された宝」とそれを偶然・たまたま発見した人の喜びを「持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」と表現されます。わたしたちがイエスに出会い、彼によって生かされている喜びを発見するのはある人にとっては「偶然」であるかも知れません。しかし、その人にとっては自分のどれほどの持ち物にも替えがたい「宝」なのです。一方、今一つのたとえでは懸命に「良い真珠を探している」商人が登場します。隠されていた宝を、それほど熱心に探し求めていたわけではない人とは対照的にこの商人は熱心に「良い真珠を探して」います。そして発見すると同じように、「持ち物をすっかり売り払い、それを買う」のでした。イエスとの出会いは、それほど深刻な悩みも人生への苦悩もなく偶然起こる場合もあれば、負い切れない苦しみや悩みに自分を問い詰めながら歩んで来て、やっとの思いでイエスに辿り着く場合もあることが示されている、と言えましょう。

 このようにイエスは神の働きについて、すなわち「天の国」について多くの側面があることを語ってくださっています。神は創造された世界が「極めて良かった」と言われる世界の完成のために働いておられます。神は「悪い者どもをより分けられる」。そのようにして神はすべての人の救いを完成されるのです。神はわたしたち人間と世界の創造者として、滅びではなく救いの完成のために働いておられることを心に留めて、何にも勝る信じる者の喜びを共に懐いて日々を歩む者でありたい、と願っております。

アーメン
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