09/05

 エルサレムへの途上中、大勢の群衆が来てイエスに付き従おうとしていました。イエスは後ろを振り向いて、群衆に「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、更に自分の命(魂)であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」と言われました。群衆は、イエスの権威の故に弟子になりたいと思っていたのです。

 イエスは、そのような人たちに、自分の家族や自分自身の命さえも憎まなくては、わたしの弟子ではありえないと厳命されます。口語訳では、「憎む」を「捨てる」と訳していました。憎む・捨てるは、原語では「より少なく愛する」です。本田神父訳では、「あとまわしにする」です。家族や自分自身を第一に大切にするのではなく、それらは後回しにして、主イエスをより多く愛(大切に、大事に)することが弟子の条件です。

 家族や自分自身の命を第一としないことは、自分にとって苦痛で、家族からも無理解な目で見られます。それが、自分の十字架を背負うということです。その十字架を背負うからこそイエスの弟子でありえるのです。

 ぶどう園の監視塔を建てるため腰をすえて費用を計算する話と、2万の敵を1万の味方で戦う時腰をすえて考える話の二つのたとえ話が続きます。どちらも、腰をすえて計算する・考えるが共通しています。これらを実現するためには、自分のものを憎む・捨てる・より少なく愛する・あとまわしにすることが中心になります。33節で、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたの誰一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われます。

 家族や自分自身、持ち物を憎むことは困難かもしれませんが、これらは人を救い出し生かすことはできません。ものではなく、主イエスを第一にするところに、真実の生き方があると確信します。

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