09/19

 今日の福音書は理解することがなぜかとても難しいようです。

 イエスは、弟子たちに次のたとえを話されました。ある金持ちがいた。その財産を任されている管理人がいる。管理人が主人の財産を無駄遣いしていると告げ口があった。管理人は仕事を取り上げられそうになったので、こうすれば負債者は自分を迎え入れてくれるだろうという考えを思いつき、主人の負債者を呼んでその借金を減らしてやった。

 これは、自分を迎え入れてくれる人をつくるために主人の財産を悪用した不正な行為です。ところが、この主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。不正な管理人の抜け目のない行為を主人がほめたとなると、わたしたちの頭は理解できずに混乱します。わたしたちは、不正は不正ですから、見逃すわけにはいきません。

 今日の話は、「放蕩(失われた)息子」のたとえ話に続いています。弟の息子は、父親の財産を分けてもらい、全部を金に換え、遠くに旅立ち、放蕩の限りを尽くし、財産を無駄遣いしてしまいました。食べるものにも困り果て、我に返って父親のもとに帰ります。

 父親はそんな息子を最上級で歓待し宴会を開きます。それを知った兄の息子は、父親の財産を無駄遣いした弟を赦し歓迎する父親の思いを理解できずに、怒って家に入りません。兄の視点で見ようとすると、無駄遣いをしている不正な管理人が、主人になぜほめられるのか理解できません。しかし、放蕩を赦され父親の胸に抱かれた弟の視点で見るなら、無駄遣いしている不正な管理人はありがたい人になります。

 マタイ6章とルカ11章の「主の祈り」の中の「負い目」は、今日の福音書の「借り」と同じ言葉です。イエスは、わたしたちの借り、負い目、罪を無駄遣いなのでしょうが、減額してくださるのです。父なる神である主人が、無駄遣いをしても赦すイエスをほめてくださるのは当然です。

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