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 民衆は、イエスの十字架を立って見つめています。ユダヤ最高法院の議員たちは、イエスをあざ笑いながら「他人を救ったのだ。もし神からのメシア(キリスト)で、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言い、兵士たちも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」、また、同じ十字架につけられながら一人の犯罪人はイエスをののしり「お前はメシアではないのか。自分自身と我々を救ってみろ」と言います。

 これらの5節の中に、救う(ギリシャ語はソウゾウ)が4回も用いられています。ソウゾウは守る、生かしておく、救う、救い出す、癒す、なおすという意味です。議員たちや兵士、ののしる犯罪人は、十字架から降りて生き続けることを救いと言っています。

 40節からは、もう一人の犯罪人が、イエスをののしる犯罪人に向かってたしなめながら「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言います。イエスは神の子として最も適切な行為をし続けてこられた。ほんとうに正(義)しいことをされているからこそ、人間の手によってわたしたちと同じ十字架につけられたのだと、この犯罪人はイエスの十字架の意味を見出しています。

 そして「イエスよ、あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と、自分も十字架刑によって死ぬのですが、復活の命を願います。イエスは、彼に向かって「あなたは今日(すでに)わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されます。

 十字架の周りの人々は、イエスが十字架から降りて命拾いすることが救いだと思い込んでいます。しかし、イエスは十字架から降りられないのではなく、あえて父のみ心のままに十字架上に留まり降りないのです。それは、ご自分と同じ十字架の道を歩む者たちに復活の命を与えるためです。

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