04/17

*関正勝司祭のご許可をいただき、
 神田キリスト教会 主日礼拝での説教原稿を
 掲載させていただくことになりました。

復活日 ヨハネによる福音書 20章1~10, (11~18)節
司祭 関 正勝

 ご復活日おめでとうございます。先主日ユダヤ教の過ぎ越しの祭にエルサレムに集まっていた群衆は詩編118編(25-26)の巡礼祝祭歌と言われる歌を歌ってイエスを迎えました。人びとは「自分の服を道に敷き、・・・木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と熱狂的に叫んでイエスを迎えました。やがて、イエスは捕らえられて総督ピラトの前に引きずり出されます。その前にイエスはオリーブ山にあるゲッセマネ(油搾りと訳される)で父である神に、激しい悲しみの中で苦しみの内に「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と「血の汗流す」と表現されるように苦悩して祈っておられます。このようにイエスが祈っておられるときにも弟子たちは睡魔には勝てないで眠ってしまっています。「あなたがたは・・・わずか一時(いっとき)もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。・・・」落胆に近い言葉を共に歩んできた弟子たちにかけられます。ユダはお金でイエスを売り、第一の弟子であるペトロもピラトの裁判の庭でイエスが預言されたとおり「その人を知らない」と3度まで否認し、弟子たちはエルサレムから逃げてバラバラに散ってしまうのでした。このような状況の中でイエスは「悲しみの道」十字架への道を歩まれ、十字架に架かられました。マタイ福音書では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)と大声で叫ばれます。これは詩編22編の言葉です。父である神に「見捨てられた」イエスの悲痛な叫びにわたしたちには聞こえます。しかし、イエスは父なる神への信頼と信仰は失っておられません。このような悲しみと苦しみの極みの中にあってなおイエスは「わが神」と呼び掛けておられます。御自分が信頼している存在への信仰が、この「わが神」との叫びにこめられております。

 そして3日後、「朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリア」はイエスを納めた墓に行きます。この朝の出来事の最初の発見者とそこでの出来事を弟子たちに伝えるのが、男性ではなくてこの女性であったことは注目されてよいことでありましょう。当時女性たちや子どもたちの証言は信頼性を疑われていたので、その事柄の記録がこうして留められたのは極めて重要であると言えましょう。とにかく、彼女の報告を受けてペトロともう一人の弟子が墓に駆けつけます。ペトロの方が、もう一人の弟子より遅れて墓に着く、という表現にどのような意味が込められていることかと想像したくなりますが。・・・鶏が鳴く前に3度まで「その人を知らない」と言って、イエスを否認したことへの後ろめたさがあったか? いずれにせよ、彼らは「墓に着いて、・・・見て、信じた。」 ヨハネ福音書は、彼らがただ「見て、信じた。」と書きます。原典には「何を見たのか?」を示す言葉がないのです。彼らは何を見たのでしょうか? イエスを納めた墓にはすでに何もなかったというのです。それまでそこにいた・存在していた者がいなくなることでより一層強く、身近にそこにいた者の存在が実感されることがあります。その存在が掛け替えのない、愛する存在であったりする場合、その存在がいなくなることで今まで以上にその存在を強く感じられるようになる経験があります。いわゆる「不在の在」とでもいえる事柄ではないか、と思います。墓の前に立つペトロ達の姿を極めて簡潔に「(何もないことを)見て、信じた。」と述べられているのは、このことではないでしょうか?

 一方復活の最初の証言者となったマグダラのマリアですが、男の弟子たちは「家に帰って行った。」のに、彼女は墓の前で泣きつづけています。「婦人よ、なぜ泣いているのか? だれを捜しているのか。」と問う人を園丁と間違えます。しかし、その人、実はイエスが彼女に「マリア」と呼び掛けます。この呼び掛けに彼女は気づかされます。そして叫びます。「ラボニ」(先生)と。この彼女の気づきはイエスによる「婦人よ」という普通名詞ではなくて、「マリア」という彼女を知る固有の名で呼ばれていることで起きています。そして、イエスは悲しみに打ちひしがれて立ち尽くすマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と命じ、やがて彼女は「わたしは主を見ました。 と告げ、また、主から言われたことを(弟子たちに)伝えた。」のでした。このようにして彼女は最初のイエス復活の証言者となったのでした。マグダラのマリアは、どのようにしてイエス復活の最初の証人となったのでしょうか? イエスの「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と言う言葉を受けて彼女は新しくイエスとの生きた交わりに入れられた、と言えましょう。彼女のそれまでの古い生き方、古い価値観といったものにより頼んで生きている自分を放棄して、新しい生き方を生きることをこのイエスの呼び掛けの言葉は促している、と言えましょう。

 信仰にはいつも過去との断絶、決別、喪失といったことが伴います。そのような決断を経て、わたしたちは新しい現実、新しい自分の誕生に出会ってきているのではないでしょうか? 成熟のためには喪失が不可欠であるとは真実ではないでしょうか? イエスが十字架上で「神よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と絶望の淵に立って叫び、しかしなお彼には「わが神、わが神」と呼び掛け、信頼する「神」がいるのでした。信頼を否定されるような事態に直面して、新たに信頼する存在に出会う。別れによって新しい出会いが与えられる。そのような出来事こそ信仰の成熟に他ならないでしょう。イエスの復活に出会うと言うことは、わたしたちが「イエスにすがりつく」ことではなく、「どうして」と叫びたくなる自分たちの十字架を「わが神」への信頼をもって負い、わたしたちが新しく生き始めることに他ならないでありましょう。困難な日々がかならず新しい朝、新しい命に担われていることを受け止め直すことこそが、わたしたちの復活信仰に他ならないでしょう。ダマスコ途上で復活のイエスに出会ったパウロは繰り返し「福音を恥としない」(ローマ1:16)と自らを告白していますが、その背後には、「十字架につけられた神」を恥じないと言うことがありました。それゆえ彼は「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。・・・なぜなら、わたしは弱いときに強いからです。」(Ⅱコリ 12:9, 10)「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリ 1:25) このパウロの確信を支えたのが復活の信仰に他ならなかったでありましょう。
アーメン

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