05/22

復活節第6主日 A年 ヨハネによる福音書15章1~8節
司祭 関 正勝

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(15:1)
 今日の福音は、イエスの弟子たちへの「別れのことば」からとられています。イエスはご自分がいよいよ十字架での死を直前にして特に弟子たちに向かって長い別れの説教をなさっておられます。その言葉がヨハネ福音書13章から16章までに残されています。この「別れのことば」には、ヨハネ福音書の特徴的な表現が用いられています。それはイエスがご自身のことを人々に直接的に言い表す時に用いる言葉です。即ちイエスはご自分のことを「わたしは・・・である」(ギリシア語でエゴ・エイミー)と語って、ご自身を表現されています。「わたしは、命のパンである。」(6:35)、「わたしは、世の光である。」(8:12)、「わたしは、羊の門である。」(10:7)、「わたしは、良い羊飼いである。」(10:11)、「わたしは、よみがえりであり、命である。」(11:25)
そして先主日の福音でもありました、「わたしは、道であり、真理であり、命である。」(14:6)、今日の主日では「わたしは、まことのぶどうの木である。」(15:1)、このように、「わたしは、・・・である。」というイエスご自身の表現はヨハネ福音書の特徴ある表現で、それはイエスがご自身を何者であるかを明らかにされるときに用いられるものである、と言われます。(7回も用いられています。)

 今日の福音ではご自身を「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」と語り出されています。「ぶどうの木」とは、旧約聖書の中ではイスラエルのことを言う言葉でした。→イザヤ書の5章1節以下「ぶどう畑の歌」「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために そのぶどう畑の愛の歌を。」 その他エレミヤ書2章21節、エゼキエル書19章10節、ホセア書10章1節など。そのぶどう畑を神は特別な思いを込めて耕されます。イザヤは続けて語ります。「よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。・・・良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。」 民族としてのイスラエルが神の選びを受け止めてその使命を全うすることが出来なかったことが語られています。このように神が託された使命を全う出来なかった現実を背景にして、「ぶどうの木」をイエスはご自身を指す言葉として使われています。そして、このこと自体が神からの使命を担えなかったイスラエルの人々にとっては厳しい批判と問い掛けに他ならなかった、と言えましょう。

 それゆえ、イエスがご自分のことを「わたしはまことのぶどうの木」と語られた時、弟子たちをはじめ人々はイエスがご自分を「まことのイスラエル」と明らかにされたことを知らされたに違いありません。そのように自己表現されたイエスはさらに「・・・わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」 「つながる」という表現は、今日の聖書日課ではカットされている9節以下では「とどまる」という表現がくりかえし用いられています。「よいぶどうの木」に「つながり・留まる」ことを決断した者は「豊かに実を結ぶ」と約束されるのですが、一方その選び取りと決断ができない者に対しては、「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(6節) ここに語られていることはイエスを銀30で売り渡して、自ら命を絶ったユダのことが背景にあるように思います。この事件を通してイエスはわたしたちに「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」と語って、命の木を選び、有機的ないのちの交流の中で豊かな実を結ぶことを選ぶことを求めておられます。9節ではさらに具体的に「父がわたしを愛されたようにわたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」と、わたしたちに命じられます。この愛し合えとの命令の背後にはイエスというぶどうの木に留まっていることで「豊かな実を結ぶ」との祝福と約束があります。

 イエスのうちに「とどまる」ということは、何もしないでじいっとしていると言ったことではなく、わたしたちが互いに「愛し合う」ということであり、そのような困難な行為が求められているのはイエスが「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(16節)と言われるように、愛されていることへのわたしたちの応答として、絶えず感謝と悔い改めの働きによって可能となることに他ならないでありましょう。わたしたちの愛は神がこのわたしをまず愛してくださったという神の出来事があって、その出来事に応答することに他ならないでありましょう。神の愛の出来事はヨハネの第一の手紙に語られているように、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(1ヨハネ3:16)とあり、ここから「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(1ヨハネ4:11)との命令が与えられるのです。

 イエスは「わたしはまことのぶどうの木」と宣言されて、さらに「あなたがたはその枝である。」と語られ、その繋がれたいのちの関係に「とどまる」ことをわたしたちに命じて、豊かに実を実らせることを求められています。このいのちの木である「まことのぶどうの木」につながってそこからいのちの水を受け取り養われなければ、わたしたちのいのちが「愛の働き」による豊かな実をむすぶことはできません。イエスは厳しく語られます。「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」ユダがそうであったようにであります。わたしたちの働きや、世間からの評判がどれほど高く大きなものであっても、神の一人子の死に導き出され、神の出来事に応答する愛の働きでないなら、それは愛という名の自己主張、自己拡張による相手を所有し、支配しかねない行為に陥らないとの保証はどこにもないでありましょう。

 「まことのぶどうの木」から互いに愛し合うといういのちを与えられて、わたしたちの枝としての歩みが豊かな実を結ぶ、という約束を現実にもたらすことができるような歩みが日々出来ますように共に祈りあって生きるわたしたちでありたい、と願っております。

 アーメン

プロフィール

カレンダー

カテゴリ

FC2カウンター

QRコード