07/22

聖霊降臨後第6主日(特定10) マタイによる福音書13章1~5, 18~23節
司祭 関 正勝 師

 今日の福音はマタイ福音書13章にしるされている「種蒔きの譬え」です。この譬えはマタイ福音書だけでなく、マルコ、ルカ福音書にも共に記されています。マタイ福音書13章には幾つかの「種」に関する譬えも記されています。

 ユダヤの民はイエスの語られることを聞こうとして、イエスの行くところ行くところに後を追うようにして集まって来ていました。今日の福音の場面でもイエスは「湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので」、イエスは船に乗ってそこから話し始められています。今日イエスが話された譬えは畑の上に蒔かれた種の話ですから、この譬えが湖の上から語られてということに少しばかりの違和感をわたしは感じてしまいます。しかし、この場面は押し寄せる多くの人々を前にして船の上に逃げ込むようにして立って話しておられるイエスの姿が、むしろ想像されてまいります。

 イエスは大工であった父ヨセフのもとで成長しましたが、大工仕事だけでなく彼はユダヤの人々の日々の暮らしの姿をよく学び知る者として成長していました。今日の譬えに出てまいります農家の人々の仕事振りについてもよく観察して知っておられたことが伝わってまいります。ユダヤの農夫たちの種蒔きは、わたしたちが知っているのとはだいぶ違っているようです。畑に畝を作ってその列に従って丁寧に種が置かれるようにして蒔かれるのとは違って、種蒔く人は畑一面に蒔くようです。絵画についてわたしはよく知りませんが、慣れ親しんだ絵にミレーの種蒔く人に描かれている農夫の姿を想像したらよいか、と思います。いずれにせよ、そのようにして種が蒔かれている情景をイエスは人々と生活を共にしておられたので、良く見て知っておられたのでしょう。

 農夫たちのそのような種蒔きの方法のゆえに、今日の福音書に語られているようなことが起こっていました。イエスはその情景を見て、蒔かれた種としての神のみ言葉の根付き具合を指摘されたのでした。きちんと整えられた畑にではなく、畑一面に種は蒔かれたのでした。その結果、ある種は道端に、石地に、茨の間に、そして良い地に蒔かれることになりました。イエスの生活者としての観察眼が捉えた姿は、わたしたちの信仰のさまざまな有り様を鋭く映し出すものとして示されることになっています。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。神から遣わされた「種蒔き人・イエス」の姿が端的に伝えられます。種が蒔かれた場所について考えてみたいと思います。「道端」についてイエスは、そこでは「(種を)鳥が来て食べてしまう」、さらに、「悪い者が来て、心の中に蒔かれているものを奪い取る」、と説明されます。「道端」とは、人々の往来が激しい場所でしょう。そのことで道端は踏み固められてしまっています。人々はその上を忙しく行き来しています。いろいろな生活上や仕事の上での関心事などなどで立ちどまって考えてみる暇さえないかのようです。その人はその踏み固められた路上で、自分がそのように忙しく歩き回っているのは何を求め、何のためであるのかをさえ見失いがちです。蒔かれた種が芽を出し、実をつけるのを心を静めて待つことが出来ません。即席の結果(や答え)を求めてやみません。やがて、新しい別の関心がその人の心を奪い、蒔かれていた種を枯らしてしまいます。

 「石だらけで土の少ない所」とは、「すぐ芽を出す」が、「日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまう」。さらにイエスは説明して、「根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」と言われます。根を持つこと、地中深く根をはることで木々や草花は堅固に、また美しく花を咲かせます。先日亡くなられたカトリックの渡辺和子シスターは『置かれた場所で咲きなさい』という本の中で、上に咲けないときは「地に根を張りなさい。」と語って仕事などがうまくいかないで挫折しがちな人々にエールを送った言葉は、真実と言わなければなりません。わたしたちが「御言葉のために艱難や迫害」に遭遇すると言う表現の背後には、福音書が書かれた時代のローマ帝国などからの迫害があったことでしょうが、現代においては複雑な姿を纏った「艱難や迫害」がわたしたちを襲いかねません。蒔かれた御言葉がわたしの内に根を張っていなければ、いとも簡単に華々しいこの世界の誘う言葉に根こそぎにされてしまうかウワベだけの信仰に陥ってしまいかねません。さらに「茨の間に落ちた」とは、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」と説明されています。茨や雑草の成長力や強さに蒔かれた種は成長を奪われて、枯れてしまいかねないのです。思い煩いへの警告は、すでに7章25節以下で思い悩みは神がわたしたちのことを心配して下さっていることを忘れていることに他ならない、とその不信を厳しく指摘されていました。自分の人生を自分の計算と予定によって成り立たせようとする態度は、神がわたしたちのことを思い悩んでおられることを見失っていることに他なりません。

 このように種蒔き人であるイエスによって蒔かれた種の落ちたいろいろな畑について思いめぐらします時に、わたし自身はその地が道端、石地、そして茨の生い茂るやせた地に他ならない自分の現実に驚き、悲しくなってしまいます。しかし、蒔かれた種は、良い地に落ちて百倍、六十倍、三十倍にも、と豊かに成長することが約束されていることに希望を持ちたいと思います。蒔かれた種は成長することが約束されているのです。「良い地」とは、「御言葉を聞いて悟る人」のことである、とイエスは言われます。「御言葉を聞いて悟る人」とは誰のことでしょうか? その人は、御言葉によってこの社会や世界のもろもろの現実を超越し、心を煩わされない人のことなのでしょうか? そうではなくて、「御言葉を聞いて悟る人」とは、たえずイエスの御言葉に耳を傾けて聞き、そして同時に自分たちの生活世界の現実の中でその御言葉を反芻し、ときには御言葉への疑問を懐き、そのように御言葉と自分が生きている現実との間の大きな割れ目に直面しながら、それでも、御言葉に頼ってイエスへの疑問を投げかけ続けて生きる人のことではないか、とわたしは思います。御言葉の正しさとその正しさに反逆するような自分の日々の現実、この両極端を見放すことなく山の狭い尾根を両側に自分の足を引っ張られながら目標を目指して歩く者こそ、多くの実を豊かに結ぶ良い地と言われるのではないでしょうか? 神の御言葉がわたしたちの日々の養いとなって、豊かな実を結ぶ者とされることを、共に願いたいものであります。
アーメン

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