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降臨節第3主日 ヨハネによる福音書 1章6~8, 19~28節
司祭 関 正勝 師

 今日の福音は、ヨハネ福音書が伝える洗礼者ヨハネの登場とその働きに関するものであります。洗礼者ヨハネの登場は既に先主日マルコが伝える記事が与えられていました。マタイ、マルコ、ルカそれぞれの福音書が伝える洗礼者の姿とは、今日の福音である福音記者ヨハネが伝える伝え方は大きく異なっています。ヨハネ以外の三つの福音書は、ヨルダン川で洗礼者ヨハネが行っていた洗礼は「悔い改め」の洗礼であり、彼はそのためにユダヤの人びと(ファリサイ派やサドカイ派を中心としていた人びと)に向かって激しく「悔い改め」を迫って、「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(マタイ3章7~8節)と叫んでいます。さらに、マタイ福音書は他の福音書と共に洗礼者が、悔い改めを必要とする彼らユダヤの人びとの真の姿を示すかのように、整然と整っている町でではなく、野獣の跋扈する「荒れ野」で行動し、しかも彼は「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、イナゴと野蜜を食べ物としていた」と述べられています。この姿は、まさに悔い改めを必要とする人間の赤裸々な姿を現す、ヨハネ自身の、いわば行動預言に他ならないでありましょう。彼らが悔い改めを必要とするのは、彼らが「われわれの父はアブラハムだ」などと、自分たちの出自・家柄といったものを誇りにして(この彼らの誇りは、同時にイエスが聖霊によってマリアの胎に宿ったということで、父親不在の子ではないか、との陰湿な誹謗中傷があったことを背景に含んでいたに違いありません)、イエスの出自を暗に批判しているのに対して、洗礼者は「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造りだすことがおできになる」と語って、自分たちがたまたま所有している持ち物などによって自らを誇り、神の働きを否定する人びとに悔い改めを迫っていました。

 日々の生活や自分たちの行動に何の疑問をも懐かず、平穏無事を良いことにしている人びとに洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ」
と叫んで、悔い改めを迫り、彼が使命とするイエス誕生の「道備え」をしている姿を、ヨハネ福音書以外の福音書はむしろ荒々しくリアルに伝えています。それに対して、今日の福音書は、福音記者ヨハネがまず洗礼者を紹介するのです。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しするために来た。光について証しするために、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しするために来た」(ヨハネ1章6~8節)。このように、今日の福音書では洗礼者ヨハネを他の三つの福音書とは異なった角度から捉えて、わたしたちに伝えてくれています。そこにこの福音書の他の福音書とは異なる特徴が示されています(それはイエス誕生の出来事を伝える伝え方においても同様です)。

 ヨハネ福音書は、「証し」という視点から洗礼者ヨハネの行動をわたしたちに伝えます。彼は光について「証し」する人物として登場しています。彼は「証人」なのです。この人の「証言」は、法廷などでの証言・証人の場合がそうであるように、まず証言を求めている人がいて、証人はその人の求めに応じて(促されて)証言し、証人になると言えましょう。洗礼者ヨハネも、勝手に自分から証人となっているのではなくて、まず「光」であるイエスとの出会いがあって、その出会いに促されるようにして「証し」がなされている、と言えましょう。光であるイエスを証しする洗礼者ヨハネの姿は、徹底して謙遜な態度でなされています。洗礼者の前に、祭司やレビたちが出てきて問いかけています。「あなたは、どなたですか」、「メシアですか、エリヤ、あの預言者(モーセのこと)ですか?」 そのいずれに対しても彼は「そうではない」と答えています。

 洗礼者ヨハネの答えは、そのすべてに対して否定的な告白と証しとなっています。彼のこの態度は徹底した謙遜を表していると言えますが、それは自己卑下などとは根本的に違っています。彼の「わたしは・・・ではない」という自己否定は「絶対的な肯定」すなわち「わたしは・・・である」という存在に出会っているときにその「否定」は意味を持つ、と言えましょう(イエスは御自分を「わたしは命のパンである」ヨハネ6章35節,48節、「わたしは世の光である」ヨハネ8章12節、「わたしはある」ヨハネ8章28節、その他10章14節、11章25節、14章15節)。洗礼者ヨハネがユダヤの人びとを前にして彼らを「蝮の子ら」と呼び、路上の何の変哲もないただの「石」を指さして、人びとが自分たちの出自や家柄さらには人びとからの評価などを根拠にして生きている姿を批判し、さらに自分を「メシアではない」と「否定」したのは、他でもないこの「絶対的肯定」(者)を知り、信頼していたからに他ならなかった、と言えましょう。このようにわたしたちは「絶対的な肯定・然り」に出会い、その存在や事柄に信頼を置くとき、わたしたちのそれまでの生活を支えていた、あれやこれやの現実はどれほどの意味をも持たなくなる、と言えないでしょうか? 「絶対的な肯定」の前で、わたしたちの価値観は相対化される、と言えましょう。聖霊によって洗礼を授けるその方を知っているがゆえに「わたしは(その方の)その履物のひもを解く資格もない」とは洗礼者の証しです。

 福音とは何か?と言えば、まさに自分が自らの出自や家柄といったものを誇りとすることで格差と差別の社会をいっそう越えがたく作り上げている現実が「蝮の子」「路傍の石」であることを知らされて、神はそのような存在をも用いて「アブラハムの子たち」を作り上げてくださるという、そのような「絶対的存在・肯定者」である神へと立ち返らせる力こそが、福音なのではないでしょうか。聖書、特に新約聖書にはイエスに出会って、自分の生き方が相対化されて、新しく生き始めた人びとの出来事が記されています。畑に隠されていた宝を発見して、喜んでいる人の姿がそうです。イエスは言われます。「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13章44節)。

 洗礼者ヨハネが「わたしは・・・ではない」と自己否定できたのは、「絶対的肯定者」(わたしは・・・である)エゴ エイミと語るメシア・キリストに出会っていたからでした。この出会いこそが、彼の存在と働きに意味をもたらしているのでした。いま、ここに生きているわたしたち自身にしても、己を謙虚にし、低みに立てるとしたら、それは「自己肯定」ではなく、神の『絶対的な肯定・受容』との出会いがあってのことであることを心に刻みたいものです。

 幼子イエスの誕生を祝い、わたしたち一人ひとりのうちに幼子を誕生させるためにも、今日の主日の洗礼者ヨハネの「あなたは、どなたですか」との問いかけに、徹底して自分自身を相対化して、神に生かされている者として応答した洗礼者ヨハネの姿に学びたいものです。

 アーメン

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