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03/02

大斎節第1主日 マルコによる福音書 1章9~13節
司祭 関 正勝 師

 大斎節を迎えた最初の主日の福音はマルコ福音書が記します。イエスの洗礼と荒れ野での40日間にわたるサタンからの誘惑の出来事であります。イエスはご自分の町ガリラヤから洗礼者ヨハネが行っていた洗礼をお受けになるためにヨルダン川に出てこられます。この出来事を伝えるマタイ福音書は洗礼者ヨハネの驚きと躊躇が記されています。洗礼者ヨハネはイエスの行動を思いとどまらせようとして、言います。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(マタイ3章14節)と。それもそのはず、洗礼者ヨハネは救い主・メシア到来のための道備えをする存在であり、イエスこそが自分が待望していたそのお方であることを知っていたからです。そして洗礼者ヨハネがユダヤの人びとに行っていた洗礼は「罪からの悔い改め」・神に立ち帰るための洗礼に他ならないものでした。その洗礼をイエスが受けようとしてヨハネのもとに出てこられたのですから彼は驚き戸惑わないではおられなかったのも当然でありましょう。ヨハネの戸惑いと躊躇にもかかわらず、イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3章15節)と語って、ヨハネから洗礼を受けられます。イエスが神からのメシアであることを信仰によって告白するわたしたちにとっても、ヨハネの懐いた驚きと疑問を持たないではおられないのではないでしょうか? なぜ神の子が罪の赦しを求めなければならないのか? このような疑問を懐くと同時にイエスの語る「正しいこと」とは何であるかに心を留めたいものです。本田哲郎神父の訳は一つのヒントを提供してくれるのではないでしょうか。すなわち、神父は「抑圧からの解放にかかわることをみな実行するのは、大事なことです」と。イエスがヨハネに向かって言う「正しいこと」とは、他でもない、人びとを苦しめている「抑圧からの解放」である、ということです。なんと大胆で、深い翻訳であり、解釈であることでしょうか。

 イエスの洗礼が人びとを苦しめている抑圧から解放をもたらすのであれば、それは正に神が実現されようとしている働きそのものに他ならないでありましょう。そうであればこそ、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたとき、聖書が「天が裂けて、“霊”が鳩のように…降って <あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者> という声」が聞こえた、と記す理由もわかるのではないでしょうか。しかし、わたしたちはイエスの洗礼がなぜ「正しいこと」であり、「抑圧からの解放」をもたらすものであったのか尋ねなければならないでしょう。

 パウロの言葉は、よくわたしたちの問い掛けに答えてくれていると言えましょう。彼はフィリピの信徒への手紙で書いています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。…」(2章6,7節)

 イエスの洗礼は、先主日(大斎節前主日)の出来事。高い山の上でモーセとエリヤに囲まれては話し合っているイエスの栄光の姿に接してペトロは、山の上にイエスを栄光の姿のままに留めようとしたのに対して山を降りて人びとのもとに帰って行くイエスの態度と同じように、わたしたちと同じ姿で同じ歩みをされようとする、その姿を表しているのではないでしょうか? それこそ、ヨハネ福音書がクリスマスのメッセージとして伝えていることに他ならないでしょう。すなわち、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1章14節)。 言、すなわち神は現実の肉、現実の社会に肉をとって宿られたのでした。イエスはクリスマスの出来事、神が現実の肉、現実の社会に肉をとられたという大いなる驚くべき出来事を、イエスは洗礼者ヨハネが人びとに向かって行っていた洗礼を受けられることで具体的に明らかにされたのでした。イエスはわたしたちと同じ歩みをされることで、私たちが陥り、苦しめられる「抑圧からの解放」の道を歩まれるのです。しかし、その道は平坦ではなく(パウロが言うように)、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2章8節)。

 イエスは神にとって「正しいこと」をまっとうするため洗礼者ヨハネから洗礼を受けられます。それは、イエスご自身の死と十字架がもたらす「正しいこと」に他なりませんでした。その「正しいこと」としての「抑圧からの解放」が現実となるところに新しい命・復活が約束されるのではないでしょうか。しかし、死と十字架を経ない復活への望みは、「安価な慰め」「また恵み」(ボンヘッファー)に堕ちてしまいます。事実、マルコは(他の福音書と共に)、イエスに対する神の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声を聞くと同時に、次のように記します。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。…イエスは…サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」。

 イエスの洗礼、それは肉をとった言(神)がわたしたちと同じ困難や悲しみ、まさに荒れ野の現実のただ中をわたしたちと一緒に歩んでくださることの証であり、わたしたち自身もそのような荒れ野と言いたくなるような日々に留まりながら、しかしイエスがそのようなわたしと一緒に「自分の十字架を負え」と励ましながら歩んでくださっている、その約束と希望がイエスの洗礼であり、「誘惑する者」・抑圧する者からの勝利・復活に他ならないことを心にとめて、日々を生きるわたしたちでありたいものです。

 アーメン

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