03/23

大斎節第5主日 ヨハネによる福音書 12章20~33節
 司祭 関 正勝 師

「一粒の麦、地に落ちて死ななければ」
 今日の福音はヨハネによる福音書12章20節以下にしるされたイエスの最後のエルサレムでの一週間の始まりの出来事が伝えられています。イエスは弟子たちと共にエルサレムに入られました。その時はユダヤの最大の祭りである過ぎ越しの祭りを祝うためにユダヤ全土から人びとがエルサレムに集まって来ていて、エルサレムの町は人びとでごった返していました。ユダヤの人びとがこの過ぎ越しの祭りに込めた期待は大層大きなものがありました。それと言うのもこの祭りは他でもない、エジプトで奴隷として苦役を強いられていた自分たちの先祖がモーセに導かれて苦役の地から脱出し、解放された、その時を記憶する祭りだったからです。イエスの時代にあってもユダヤの人びとはローマによって支配され、統治されて、貧しく苦しい状態を強いられていました。そのような彼らにとってイエスは「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」(12章13節)と期待を込めて呼びかけるにふさわしいお方と受け止められて、エルサレムに彼は迎え入れられるのでした。このようにイエスと弟子たちがエルサレムに入城された時は、過ぎ越しの祭りに込められた民族的な救いへの期待とイエスの生涯が人びとにもたらした驚きと期待、幻滅と希望といったことが入り混じった歩みが重なり合って、人びとは熱狂しエルサレム全体が興奮の坩堝となっていた、と言っても言い過ぎではなかったでありましょう。

 この祭りに異邦人であるギリシャ人が来ていて、彼らのある者たちがフィリポを介してイエスに会いたいと願い出ます。このことがイエスに自分の働きがギリシャの地にも伝えられていることを知らせることとなり、ついにイエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られます。これまでもイエスは幾たびか「わたしの時はまだ来ていない」と語って、その時が神の栄光を表す時、それは彼にとっては神の意志としての自らの死を差し示していたのでした。エルサレムでイエスの身に起こる事柄は、まさにご自分の十字架上の死にかかわる事柄でした。訪ねて来たギリシャ人たちがイエスに問い掛けたことの内容はわかりませんが、しかしイエスは彼らに答えるようにして自分が一体何者であるか、その生涯が何であるかを彼らに語るのに、ご自分がどのような死を迎えるのかを語り明かそう、とされたのでした。人は生きてきたようにしか死ねない、とよく言われますが、イエスの死は彼の生涯が何であったかを語ります。

 イエスにとって死は、彼の働きが何であるかを示す出来事に他ならないのですが、しかしイエスは死を目前にして激しく悩み苦しんでおられます。ヨハネ福音書以外の福音書には「ゲッセマネの祈り」としてイエスの父である神への激しいばかりの叫びにも等しい祈りが記されています。イエスは「ひどく恐れてもだえ始め」、弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マルコによる福音書14章34節)と、語られています。今日の福音書でも27節にその祈りが記されます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。“父よ、わたしをこの時から救ってください”」。イエスが父に祈っている「この時」とはご自分の苦しみから逃れて、解放されたい時ではない。十字架上での死が真実、神の救いの力を示すことになるのか、もしかして人びとには神の力がこの世界の力に屈して敗北することになりはしないか、救いは十字架の死以外に表される道はないのか、といったイエスの苦悩と試みの時を語っておりましょう。これは十字架上でのイエスの言葉と同じくイエスの真剣な祈りであり、問い掛けでもありました。この激しい問い掛けの後、しばらくの沈黙があって、ついにイエスは語ります。「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」と。何と大いなる「しかし」でありましょうか。ゲネサレト湖で夜通し漁をして、しかも不漁で終わったシモン・ペトロにイエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし」なさいと命じますが、漁師としてのペトロの経験と誇りがこのイエスの命令の前に壁となってしまいますが、やがてペトロは「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と、イエスの言葉に従った物語が想い起こされます(ルカによる福音書5章5節)。今日の福音におけるイエスの「しかし」も日常的な経験や常識、生活の知恵といったものを打ち破り変革させる、いわば「大いなる転換」ともいうべき「しかし」でありましょう。この転換があってイエスは「父よ、御名の栄光を現してください」(→主の祈りの第一の祈り「御名が聖とされますように」)と祈られるのでした。

 こうしイエスはわたしたちに「永遠の命に至る」道を、十字架上の死を通してもたらされる新しい命への道を示されたのでした。それは一粒の麦が地に落ちて死ぬことで多くの実を結ぶ道でした。死が命をもたらす、という逆説的な真理を一粒の麦の種の譬えをもって示されたのでした。終わりが、そのまま終わりではない。
 今学校は卒業式のシーズンを迎えていますが、「卒業」は必ずしも若者たちの終わりではない。そうではなくて新しい始まりに他ならないでありましょう。実際一粒の麦が自分自身の中に閉じこもってしまえば新しい命の芽は生えいでない事でしょう。人びとの目にはおろかに思える姿と方法をもって、神の新しい命に至る道が示されています。イエスは言葉を続けて「自分の命を愛する者は(本田神父訳「執着する者」、岩波訳「愛着する者」)、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は(本田神父訳「この世にからめ取られた自分自身を憎む者」)、それを保って永遠の命に至る」と語られます。一粒の麦の譬えは、さらにわたしたちが見失いがちな現実に引き寄せて語られます。自分の命が脅かされるような経験が新しい命の誕生をもたらすということを。ところが自分の命が無菌のまま純粋・無垢のままであることを願って他者と交わることを拒否している限りわたしたちは、孤独のうちに死ぬでありましょう。 しかし、傷つきながら他者と交わることで新しい命・新しい自分が誕生します。わたしたちは失うこと・喪失によって成熟することがしばしばであることを経験しているのではないでしょうか。別れが出会いを!

 事実、イエスの生涯とその十字架上での死はわたしたちの世界に新しい命に至る道に招かれて歩む者たちを呼びかけ招きかけ続けていることを、その招きにあずかっているわたしたち一人ひとりの歩みが証しするものであることを信じたいものであります。 

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