最新牧師コラムの記事一覧

05/13

 福音書はヨハネ14~17章の告別説教の一部です。17章には「イエスの祈り」とあります。この箇所はイエスの執り成しの祈りです。執り成しとは、代祷です。代祷は、他の人たちを覚えてその人たちのために祈ることです。先週の木曜日は昇天日でした。イエスは、世に弟子たちを残して天に行かれます。弟子たちを覚えて弟子たちのために願い祈ります。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」と祈ります。守るはティレオーで3回、同じような語で保護するフュラッソーが1回使われます。父なる神が与えられた御名であるイエス・キリストは、弟子たちを守ってください、保護してくださいと熱く祈ります。何故なら、世は弟子たちを憎んでいるからです。17:14bの「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」と全く同じ言葉の17:16で、15節の「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」を挟んでいます。これが中心です。弟子たちは、世から取り去られるのではなく、悪い者から守られ、世にあってキリストの弟子として生きるのです。間もなく、聖霊なる主が弟子たちを守ります。

復活節第7主日(昇天後主日) B年
 使徒言行録 1章15~26節
 詩編 第47編
 ヨハネの手紙一 5章9~15節
 ヨハネによる福音書 17章11c~19節

05/06

 今日の福音書は「互いに愛し合いなさいの命令」です。それが2回繰り返されます。11節の「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」が中心となり、前と後の文が対応しています。愛は、エロス、フィロス、アガペーの3つの語があります。神の愛はアガペーであり、この箇所ではすべてアガペー「愛」、アガパオー「愛する」が用いられています。愛は、本田哲郎訳では「大切にする」と訳されます。互いに愛し合うことは、互いに大切にし合うことです。互いに大切にし合うことが、イエスの掟です。「友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」とあるところの友は「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」という友です。だれでもが友になるのではありません。イエスの掟を行う者だけが友です。はっきりと確認する必要があります。イエスの愛の掟を行う者は、イエスの僕ではなく、イエスの友となります。命を捨てるはティセイミで、16節の「わたしがあなたがたを任命した」の任命もティセイミです。わたしたちは互いに大切にするために、友のために命を捨てるために任命されたのです。これこそが「喜びを満たされる」こと、喜びの完成です。

復活節第6主日 B年
 使徒言行録 11章19~30節
 詩編 第33編1~8, 18~19節
 ヨハネの手紙一 4章7~21節
 ヨハネによる福音書 15章9~17節

04/29

 イエスの告別説教の一部で「聖霊を与える約束」です。
15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と、21節「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である」で前後を挟んでいます。仮定と結果の順序が逆です。18節「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」が真ん中にあり前と後に分けています。前文は、別の弁護者である真理の霊は、あなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからであるとなっています。後文は、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かるとなっています。前文は、別の弁護者が弟子たちの内にいるのです。後文は、イエスが弟子たちの内にいるのです。弁護者はパラクレートスです。パラは傍にで、クレートスは呼び寄せられた人です。弁護者、後見人、助け手となります。別の弁護者は真理の霊ですが、もう一人の弁護者はヨハネの手紙Ⅰ2:1に「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」とあるので、弁護者はイエス・キリストです。これらの弁護者がわたしたちを愛の業に導き、永遠の命に至らせます。愛はわたしたちの目を開きます。

復活節第5主日 B年
 使徒言行録 8章26~40節
 詩編 第66編1~8節
 ヨハネの手紙一 3章18~24節
 ヨハネによる福音書 14章15~21節

04/22

 ユダヤの荒れ野で羊の群れを追っている少年がいました。炎天下の荒れ野には何もありません。所々に藪が茂っていて、それを羊が食べています。決して豊富な緑ではありません。世界中で、食料として一番食べられている動物は、牛や豚ではなく羊だそうです。羊は飼育が簡単なのかもしれません。羊は自分の身を守る術を持たない動物です。角も牙もありません。足も速くはありません。毛はウールになります。貴重な動物です。
 羊が自分のものでない雇い人の羊飼いは、狼が来るのを見ると逃げます。自分の羊ではないので、狼に食べられても心も懐も痛みません。狼は奪い食べ、あるいは追い散らします。雇い人の羊飼いと狼は、自分のために羊を利用しています。しかし、イエスはわたしは良(善)い羊飼いであると言われます。良い羊飼いであるわたしは羊のために命を捨てると言われます。捨てるは、ティセィミで置く、横たえるという意味があります。命(プシュケー)を置くので、命を捨てると訳します。キリストは、自分をよく知る弱い羊のために命を一旦置きます。わたしたちも、弱い羊のために命を置くことを知ると、そこに生きる意味を見出します。心も体も楽になります。

復活節第4主日 B年
 使徒言行録 4章32~37節
 詩編 第23編
 ヨハネの手紙一 3章1節~8節
 ヨハネによる福音書 10章11~16節

04/15

 女性たちは、墓の中の輝く衣の二人に「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。人の子は、十字架につけられ三日目に復活することになっている」と言われます。彼女たちは、イエスの言葉を思い出します。その日、エマオに行く二人の弟子たちにイエスが現れますが、イエスだとは分かりません。イエスのパン裂きで二人の目が開け、イエスと分かりますが、イエスは見えなくなります。その弟子たちが、エマオの出来事を話していると、彼らの真ん中にイエスが現れ「平和があるように」と言われます。弟子たちは、恐れおののきます。イエスは「なぜ、うろたえ、心に疑いをおこすのか。わたしの両手、両足を見なさい」と続けます。両手、両足には釘跡があります。イエスは十字架につけられたときの体でよみがえられました。弟子たちは喜びますが、まだ信じられません。それほどに十字架の死は恐怖です。イエスは焼いた魚を一切れ取って食べます。十字架の上に殺されたイエスが肉と骨を持った体として復活されました。イエスが愛の業を行って、死から生へとよみがえられることを聖書は記します。弟子たちの心を開いてそれを悟らせます。弟子たちは、それらの証人となります。証人はマルトウスで殉教者の意味もあります。弟子たちは恐れることなく、イエスの傷に倣い殉教者となっていきます。

復活節第3主日 B年
 使徒言行録 4章5~12節
 詩編 第98編1~4節
 ヨハネの手紙一 1章1節~2章2節
 ルカによる福音書 24章36~48節

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