最新の記事一覧

08/04

聖霊降臨後第8主日(特定12) マタイによる福音書13章31~33, 44~49a節
司祭 関 正勝 師

 今日の福音は、先主日の「毒麦」のたとえに引き続いて、イエスは「天の国」に関して多くのたとえを語られています。マタイ福音書は「神」という言葉を用いるのを避けていますが、ルカ福音書などの「神の国」とほぼ同じことを指している、と言えましょう(マタイ10章7節「天の国は近づいた」 ルカ10章9節「神の国はあなたがたに近づいた」)。いずれにせよ、マタイ福音書は13章で「種蒔く人」のたとえに始まって、多くのたとえを用いて語られています。先主日の「毒麦」のたとえを、どのようにお聞きになられたでしょうか? 種を蒔く「ある人」とはイエスご自身のことでありましょう。蒔かれた種は「良い種」でしたが、イエスに逆らう「敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」というのです。弟子たちは「毒麦を抜き集めて」しまおうと、性急な判断をします。それに対してイエスは「待つ」ことを求められています。このたとえは神が創造されたとき、「それは極めて良かった」(創世記1章30節)との現実から大きく離れてしまっている、わたしたちの世界の現実を見渡すとき、大きな嘆きと共に見えてくる世界の姿を表現しているように感じます。蒔かれた種は「良い種」だったのではないのですか? この悲劇的な現実に対する弟子たちの態度は、「待つ」という神の働きを先取りし、あるいは自分たちこそが「良い麦」であると自認して他の人を認めないで排除する態度に他ならないのではないでしょうか? わたしたちは、神の裁きを先取りしてはならないでしょう。勿論、神の行為である裁きを過小評価すべきではありませんが、過大評価することも避けたいものです。わたしたちはイエスから育つことが求められているのであって、「毒麦」探しをすることではないのですから。

 さて、イエスはこの13章で、「天の国」について多くのたとえを語られています。すなわち、今日の福音の「からし種のたとえ」(31~33節)、「パン種のたとえ」(33節)、「畑に隠された宝のたとえ」(44節)、「良い真珠を探す商人のたとえ」(45~46節)、最後は「漁師の網のたとえ」(47~50節)、このように多くのたとえを用いて「天の国」について語られたのには、たとえは語られようとしていることのすべてを語り尽くすことはできないからに他ならないでしょう。一つ一つのたとえには「天の国」の真理の、ある側面・部分が語られてはいても、その全体が言い表されることはできないからではないでしょうか? そのようなわけで「からし種」のたとえ、「パン種」のたとえが語られます。「からし種」は、「どんな種よりも小さい」がやがて成長すれば「空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」。こう語られるイエスはわたしたちの弱く小さな信じる者たちの歩みを励まし、勇気づけてくださっています。どんなに小さく、人には気づかれることもないかも知れないわたしたちの信仰の歩みも、神は育て養って成長させてくださる、ということではないではないでしょうか。また同じように小さな「パン種」も同様です。聖書に登場する「パン種」(酵母・イースト菌)は必ずしもプラスのイメージが与えられていません。むしろ悪いイメージです。出エジプト記では不潔なものとして取り除くことが命じられています。(出エジプト12章15節「…まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。…酵母入りのパンを食べた者はすべてイスラエルから断たれる」)。イエスご自身「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタイ16章6節)、パウロも「…古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」(1コリント5章6~7節)。イスラエルの人々の伝統からは評価されず、むしろ嫌われた不純なものと受け止められていた「パン種」をさえ、イエスは、「天の国」の発芽に欠かせない存在として語られて、わたしたち小さな者とその小さな、時に取るに足らないと思われる歩みさえ、「天の国」に通じる、と励ましておられます。人々が無視し、排除していた「パン種」についてイエスは「三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」と言われる言葉に注目したいと思います。「三サトン」とは約40トンになるとのことで、これで100人分ぐらいのパンができるそうです。それゆえ「パン種」は、実は触媒のような働きをしている、と言えないでしょうか。小さな存在で、人々からは気にも留められない存在である「パン種」が美味しく、豊かなパンを作り出していて、しかも自己主張をしていない。そのような存在こそ「触媒」なのではないかとわたしは思います。このようにイエスは人々が気にも留めないでその横を通り過ぎて行く「小さな存在」をもって「天の国」の発芽を見ておられたのではないでしょうか。

 ですから今日の福音の後半でイエスはまず「畑に隠された宝」とそれを偶然・たまたま発見した人の喜びを「持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」と表現されます。わたしたちがイエスに出会い、彼によって生かされている喜びを発見するのはある人にとっては「偶然」であるかも知れません。しかし、その人にとっては自分のどれほどの持ち物にも替えがたい「宝」なのです。一方、今一つのたとえでは懸命に「良い真珠を探している」商人が登場します。隠されていた宝を、それほど熱心に探し求めていたわけではない人とは対照的にこの商人は熱心に「良い真珠を探して」います。そして発見すると同じように、「持ち物をすっかり売り払い、それを買う」のでした。イエスとの出会いは、それほど深刻な悩みも人生への苦悩もなく偶然起こる場合もあれば、負い切れない苦しみや悩みに自分を問い詰めながら歩んで来て、やっとの思いでイエスに辿り着く場合もあることが示されている、と言えましょう。

 このようにイエスは神の働きについて、すなわち「天の国」について多くの側面があることを語ってくださっています。神は創造された世界が「極めて良かった」と言われる世界の完成のために働いておられます。神は「悪い者どもをより分けられる」。そのようにして神はすべての人の救いを完成されるのです。神はわたしたち人間と世界の創造者として、滅びではなく救いの完成のために働いておられることを心に留めて、何にも勝る信じる者の喜びを共に懐いて日々を歩む者でありたい、と願っております。

アーメン

07/30

 「パン種」のたとえと「天の国」のたとえです。5つの話から成ります。初めの2つは「天の国は~に似ている」とあり、後の3つは「天の国は~にたとえられる」とあります。たとえ話は、たとえられるものを理解し易くしますが、イエスが話されるたとえ話は分かりやすいとは決して言えません。それほどに、天の国を説明することは難しいのです。
 からし種はとても小さく畑に蒔かれて大きく成長します。パン種もとても小さく粉の中に混ぜられて膨らませます。畑に宝が隠されていて見つけた人は、全財産を売り払いその畑を買います。普通の真珠の中に良い真珠を見つけた人は、全財産を売り払いその高価な真珠を買います。湖の中に投げ込まれた網がいろいろな魚を集めます。これらの話は、湖の話を除いて畑、粉、畑、普通の真珠の中に、全財産と引き替えるほどの隠された大きな喜びがあることを表現しています。天の国は普通の生活の中に隠されていますが、見つけた人は自分の人生が変えられるほどの大きな喜びを得ます。

聖霊降臨後第8主日 A年 特定12
 列王記上 3章5~12節
 詩編 119編105~112節
 ローマの信徒への手紙 8章26~34節
 マタイによる福音書 13章31~33, 44~49a節

07/29

7月30日(日) 聖霊降臨後第8主日
      *日曜学校は本日から8/27まで夏休み
      10時半 聖餐式 *本日より、「主の祈り」(聖歌集S37-5)を歌います。
      礼拝後 愛餐会
      14時  下町教会グループ協議会(月島聖公会)

★主日礼拝が次の通り変更になります。
 8/13(日)10時半 聖餐式  司式・説教 井口諭司祭
 9月以降:第1日曜日10時半 聖餐式  司式・説教 井口諭司祭
      第2日曜日10時半 み言葉の礼拝
 *逝去者記念礼拝は毎月第3金曜日のままです。
★平和のために祈る(司式・説教 大畑喜道主教 場所:聖アンデレ主教座聖堂)
 「広島原爆の犠牲者とすべての被爆者のため」 8/6(日)17時
 「長崎原爆の犠牲者とすべての被爆者のため」 8/9(水)10時半
 「平和を祈る」 8/15(火)12時
★教会キャンプ 8/27(日)午後~29(火)(於:伊豆高原)
★創立140周年記念写真集、作成中! 創立記念礼拝は10/9(月・祝)です

07/23

 天の国のたとえです。たとえは、頭ではなく心に語りかけてきます。36~43節は、頭に語りかけますのでイエスの言葉ではなく初代マタイ教会の記述です。イエスの思いは、つまずきとなるもの、不法を行う者どもを燃え盛る炉に投げ込むだけが目的ではありません。
 ある人が良い種を畑に蒔きます。敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行きます。僕たちの問いに、主人は「敵の仕業だ」と応えます。僕たちは抜き集めましょうか」と言いますが、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と応えます。「両方とも育つままにしておきなさい」を、岩波訳では「双方とも一緒に成長させなさい」、岩隈訳では「両方ともいっしょに成長するままにしておけ」とします。両方、双方はアンフォテロイで、一緒に成長するはスンアウカノーで、麦も毒麦も両方(双方)一緒に成長させたままにと、両方と一緒が繰り返されます。「…ままにしておく」はアンフィエーミで罪を赦すという意味もあります。一つの畑の中に良い麦も悪い麦もあるのです。主人は、わたしたちの中で両方一緒に育つままにさせ、良い麦が多くなるのを忍耐強く待たれます。

聖霊降臨後第7主日 A年 特定11
 知恵の書 12章13, 16~19節
 詩編 第15編
 ローマの信徒への手紙 8章18~25節
 マタイによる福音書 13章24~30, 36~43節

07/22

聖霊降臨後第6主日(特定10) マタイによる福音書13章1~5, 18~23節
司祭 関 正勝 師

 今日の福音はマタイ福音書13章にしるされている「種蒔きの譬え」です。この譬えはマタイ福音書だけでなく、マルコ、ルカ福音書にも共に記されています。マタイ福音書13章には幾つかの「種」に関する譬えも記されています。

 ユダヤの民はイエスの語られることを聞こうとして、イエスの行くところ行くところに後を追うようにして集まって来ていました。今日の福音の場面でもイエスは「湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので」、イエスは船に乗ってそこから話し始められています。今日イエスが話された譬えは畑の上に蒔かれた種の話ですから、この譬えが湖の上から語られてということに少しばかりの違和感をわたしは感じてしまいます。しかし、この場面は押し寄せる多くの人々を前にして船の上に逃げ込むようにして立って話しておられるイエスの姿が、むしろ想像されてまいります。

 イエスは大工であった父ヨセフのもとで成長しましたが、大工仕事だけでなく彼はユダヤの人々の日々の暮らしの姿をよく学び知る者として成長していました。今日の譬えに出てまいります農家の人々の仕事振りについてもよく観察して知っておられたことが伝わってまいります。ユダヤの農夫たちの種蒔きは、わたしたちが知っているのとはだいぶ違っているようです。畑に畝を作ってその列に従って丁寧に種が置かれるようにして蒔かれるのとは違って、種蒔く人は畑一面に蒔くようです。絵画についてわたしはよく知りませんが、慣れ親しんだ絵にミレーの種蒔く人に描かれている農夫の姿を想像したらよいか、と思います。いずれにせよ、そのようにして種が蒔かれている情景をイエスは人々と生活を共にしておられたので、良く見て知っておられたのでしょう。

 農夫たちのそのような種蒔きの方法のゆえに、今日の福音書に語られているようなことが起こっていました。イエスはその情景を見て、蒔かれた種としての神のみ言葉の根付き具合を指摘されたのでした。きちんと整えられた畑にではなく、畑一面に種は蒔かれたのでした。その結果、ある種は道端に、石地に、茨の間に、そして良い地に蒔かれることになりました。イエスの生活者としての観察眼が捉えた姿は、わたしたちの信仰のさまざまな有り様を鋭く映し出すものとして示されることになっています。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。神から遣わされた「種蒔き人・イエス」の姿が端的に伝えられます。種が蒔かれた場所について考えてみたいと思います。「道端」についてイエスは、そこでは「(種を)鳥が来て食べてしまう」、さらに、「悪い者が来て、心の中に蒔かれているものを奪い取る」、と説明されます。「道端」とは、人々の往来が激しい場所でしょう。そのことで道端は踏み固められてしまっています。人々はその上を忙しく行き来しています。いろいろな生活上や仕事の上での関心事などなどで立ちどまって考えてみる暇さえないかのようです。その人はその踏み固められた路上で、自分がそのように忙しく歩き回っているのは何を求め、何のためであるのかをさえ見失いがちです。蒔かれた種が芽を出し、実をつけるのを心を静めて待つことが出来ません。即席の結果(や答え)を求めてやみません。やがて、新しい別の関心がその人の心を奪い、蒔かれていた種を枯らしてしまいます。

 「石だらけで土の少ない所」とは、「すぐ芽を出す」が、「日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまう」。さらにイエスは説明して、「根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。」と言われます。根を持つこと、地中深く根をはることで木々や草花は堅固に、また美しく花を咲かせます。先日亡くなられたカトリックの渡辺和子シスターは『置かれた場所で咲きなさい』という本の中で、上に咲けないときは「地に根を張りなさい。」と語って仕事などがうまくいかないで挫折しがちな人々にエールを送った言葉は、真実と言わなければなりません。わたしたちが「御言葉のために艱難や迫害」に遭遇すると言う表現の背後には、福音書が書かれた時代のローマ帝国などからの迫害があったことでしょうが、現代においては複雑な姿を纏った「艱難や迫害」がわたしたちを襲いかねません。蒔かれた御言葉がわたしの内に根を張っていなければ、いとも簡単に華々しいこの世界の誘う言葉に根こそぎにされてしまうかウワベだけの信仰に陥ってしまいかねません。さらに「茨の間に落ちた」とは、「御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。」と説明されています。茨や雑草の成長力や強さに蒔かれた種は成長を奪われて、枯れてしまいかねないのです。思い煩いへの警告は、すでに7章25節以下で思い悩みは神がわたしたちのことを心配して下さっていることを忘れていることに他ならない、とその不信を厳しく指摘されていました。自分の人生を自分の計算と予定によって成り立たせようとする態度は、神がわたしたちのことを思い悩んでおられることを見失っていることに他なりません。

 このように種蒔き人であるイエスによって蒔かれた種の落ちたいろいろな畑について思いめぐらします時に、わたし自身はその地が道端、石地、そして茨の生い茂るやせた地に他ならない自分の現実に驚き、悲しくなってしまいます。しかし、蒔かれた種は、良い地に落ちて百倍、六十倍、三十倍にも、と豊かに成長することが約束されていることに希望を持ちたいと思います。蒔かれた種は成長することが約束されているのです。「良い地」とは、「御言葉を聞いて悟る人」のことである、とイエスは言われます。「御言葉を聞いて悟る人」とは誰のことでしょうか? その人は、御言葉によってこの社会や世界のもろもろの現実を超越し、心を煩わされない人のことなのでしょうか? そうではなくて、「御言葉を聞いて悟る人」とは、たえずイエスの御言葉に耳を傾けて聞き、そして同時に自分たちの生活世界の現実の中でその御言葉を反芻し、ときには御言葉への疑問を懐き、そのように御言葉と自分が生きている現実との間の大きな割れ目に直面しながら、それでも、御言葉に頼ってイエスへの疑問を投げかけ続けて生きる人のことではないか、とわたしは思います。御言葉の正しさとその正しさに反逆するような自分の日々の現実、この両極端を見放すことなく山の狭い尾根を両側に自分の足を引っ張られながら目標を目指して歩く者こそ、多くの実を豊かに結ぶ良い地と言われるのではないでしょうか? 神の御言葉がわたしたちの日々の養いとなって、豊かな実を結ぶ者とされることを、共に願いたいものであります。
アーメン

プロフィール

カレンダー

カテゴリ

FC2カウンター

QRコード